人間の苦しみは 言葉を知り それを記憶することから始まった
人間は自然のうちで最も弱い一本の葦(あし)にすぎない しかし、それは考える葦である(注1)
苦しさを感じ、生きるか死ぬかなどと考えるのは、言葉を持つ人間だけです。動物も植物もそのようなことは考えません。例えば事故などで脳の大脳皮質の思考野などを損傷すれば、生きる苦しさなど考える思考が活動しなくなり、植物的生命状態で生き抜くことになります。その場合、人は動物的生に近くなります。動物は、情動反応としての意識はありますが、思考することはほとんどなく、快・不快の本能的反応が中心です。しかし、人間は、不快や恐怖や苦を言葉によって増幅させ、反復させ、いたずらに苦しみます。
(注1)葦(あし)…水辺に生える植物で風に弱く、容易に倒れてしまうことから、人間の肉体的弱さやもろさを象徴しています。しかし、人間は、他の動物にはない思考力を持つため、自分の弱さを自覚し、宇宙の大きさを認識し、死を意識することができる、という点が強調された哲学者パスカルの名言です。
自分と意識できるは記憶の働き
「われ思うゆえに我あり」とデカルトは言いました。思考し、それらを意識するために、自分は自分だと確認できます。考えることで、人間だけが自己認識できるのです。しかし、考えるために、人間は悩みと苦しみを引き受けることになりました。反面、思考することで人間は進歩発展し、物質的に豊かな生活を送ることができるようになりました。思考するという人間に与えられた特権をどう使うかが重要になります。思考は言葉によってなされます。
言葉は過去の記憶化された知識ですが、言葉には心の思いとしての感情が伴います。それはAIにはない人間独自のものです。苦と感じるのは、知識・言葉よりも、それと一緒に生起する感情です。正確に言えば感受反応(感情と表現している)を言葉で置き換えることによって、その感覚が鮮明化されます。AIには感情はありません。正確な電気信号による言葉があるだけです。苦からの解放は、感受したものを、どのように流すかにかかっています。人間は思考する感情の動物です。波のように生まれた感情のエネルギーは、他のエネルギーに転換されてゆくのを待つしかありません。それは、今の感情に支配されている意識を他の対象に置き換えることで可能になります。マインドフルネス(付録)は、このことの修得を教えてくれています。
意識の転換とはエネルギーが向かう対象を意識的に替えることです。例えば、怒ったとき、対象から距離を取ることで、怒りを緩和させることは、よく知られています。しかし、対象を替えても、エネルギーのもつ余派はすぐに変わるわけではありません。視覚に残像が残るように、五感覚で感受したものの余情や余韻が自然に消えることを待たなければなりません。一度起きた湖面の波が消えるのを待つしかないのです。
強い刺激は 頭の中を ぐるぐる巡る
強い刺激とは、前述した本能行動と関係しています。一番強い刺激は、自らの身が危機に瀕する時に生じる、恐怖と怒りです。恐怖場面に出遭ったとき、人も動物も、逃走か闘争かの二者択一を迫られます。闘争の場合は、対象に対して激しい攻撃的怒りを発します。逃走の場合は恐怖に支配されます。その恐怖感は深く心に刻まれます。闘争の場合も攻撃感情としての瞋りが心に残ります。そして、何かあるたびに心に浮かびあがり、自らを苦しめます。その心的状態をトラウマ(心的外傷)と表現することもあります。
この繰り返しが頭の中で起きる現象を反芻(はんすう)思考・ぐるぐる思考と呼んだりします。心を病んでいる人に多く見られる心の働きです。また、強い刺激には快刺激も含まれます。刺激に伴う快感の強さは心に深く刻まれ、やはり頭の中を巡り、何かに触れて思い起こされ、行為を繰り返します。いわゆる依存症です。アルコール、ギャンブル、性的なもの、ゲームやスマホ依存などが加速し、世の中の大半の人たちが依存症になっていると言われています。それは世の中に快適刺激が満ち溢れているからです。人間は快を求め不快を避ける動物であることを忘れると、心身のバランスを失い病んでゆきます。
ぐるぐる思考は、記憶の働きがある限り、だれしもが経験するものです。ただ、その思考のため生活に不自由を感じ、頭の中を常に巡り、頭から離れない思考を病的思考と呼んでいます。侵入思考、自動思考、強迫観念とも重なる心的働きです。それは、ある時のある出来事が記憶され、反復することにより強化され、その記憶が無意識層に潜在、堆積されているからです。そこから 波のように何気に起きてきます。制御が難しいため苦しみます。
しかし、忘れてはいけないことは、「やけどした子が火を恐れるようになる」とあるように、恐怖体験は身を守るための自己防衛本能の働きであるということです。苦は向き合い方によって、人間を大きく成長させてくれるかけがえのない薬になるということです。「苦に徹すれば珠になる」とは文豪、吉川英治の言葉です。また、逆境こそ教師と言った偉人もいます。
生きることは空模様に似ている 雨の日もあれば晴れの日もある
生き続けていれば、よいことにも出遭えます。人生は空模様と似ています。いつも晴れではありません。雨や雪そして嵐であっても、いつまでも続きません。台風も一週間もすれば通り過ぎます。暗雲が垂れ込め重苦しい空模様の日でも、雲のかなたには太陽はいつも輝いています。目で見えなくとも、心を働かせば輝いている太陽を描くことができます。同じように、どんな辛い苦しみも、いつまでも続きません。空模様と同じです。そして見えなくとも心には、いつも太陽という無限の可能性が存在しています。空のたとえが教えてくれるものを信じて、今を耐え、今日を生きるようにします。今日、しなければいけないことをします。今をとにかく生きます。そうすれば空模様が一定でないように、心模様も変わっていきます。だから、人は生きていけるのです。「冬来りなば 春 遠からじ」(ドイツの詩人シラーの言葉) 冬は苦を象徴し、春は希望であり、楽を表しています。
筆者の苦しみ多き青少年期
楽しいことより苦しいこと、辛いことのほうが多いのが人生の真実です。生きる、それは苦しみとの闘いです。なぜなら、生きることは常に新しい出来事・変化を経験することなのです。新しい経験であるためうまくいかないことは当然なのです。うまくいかないと人は苦しさを感じます。私の過去を例に話してみます。六歳で母親と死別しました。兄弟7人、10年の間に7人ですから、ほとんど年子状態です。父親は寂しさのためか、酒浸りとなり家に帰って来ず、子どもを放置した状態でした。私は小学3年から5年生の3年間、全く学校に行っていません。2歳年下の弟と食べ物を求め野山や畑や商店街などを放浪していました。食べるものがない、寝る布団がない、服がない、電気がない、年上の人たちからの不当な暴力やいじめ、暴言、罵倒されたり、地域の人から厄介視されたり、およそ人間の生活ではありませんでした。
私が11歳になったころ、私たち男兄弟4人は、児童養護施設に収容されます。今と違ってその施設は、弱肉強食がものをいう動物的な世界でした。児童に自由はほとんどなく、食べ物も粗食、量り飯、休みの日は奉仕作業という名のもとの強制労働です。職員も児童に平気で暴力をふるっていました。現代の刑務所より劣悪環境で、地獄そのものでした。多くの児童の心は歪んでいったようです。中学3年生の始めの頃に、親父に引き取られ叔母の家に同居しました。思春期、青年期になると、私は人と比較して自分を劣ったものと感じ自信を失なったり、自暴自棄になり横道にそれたり、自分の弱さや劣等を隠すために、高校では服装違反、規律違反し、突っ張り、虚勢を張って生き続け、バイクで暴走し、同級生や教師からも一目置かれる不良になっていました。しかし心は空虚で満たされず、ますます反社会的行動に走っていました。結果は高校中退です。また施設出身ということを気にしたり、性格を悩んだり、悩み・苦しみ、そして失敗の連続でした。ですが、なんとか生き抜きました。
20歳の頃、人生の善き先輩と出会い、正しい人生、生き方に徐々に目覚め、生き方の方向がかわってゆきました。自活しながらの浪人・学生時代は、自分の存在に煩悶し、生きるとは何か、心とは何なのか、真理とは、なぜ人々は不公平なのか、幸福とはなど、大学の勉強はそっちのけで、心、生命、見えない世界、正しい社会の在り方などを探求し哲学し、人間の道を歩むようになっていったのです。(拙著「失敗もいいものだよ」自伝的小説から)
苦悩の先に楽しさや喜びが訪れる
今日まで多くの苦しみに向き合い、生き抜くたびに楽しさを感じることもありました。苦を乗り越えた先に、人生の喜びを味わいました。だから生き続けてこれたのかもしれません。しかし、その楽しさもつかの間、また苦が訪れます。その繰り返しですが、苦を乗り越えてゆく度に強くなり賢くなったのも事実です。そして、いつの間にか、苦しみの日々より、平穏な日が増えたような気がします。それは私自身の生き方が変った結果だと気づきました。生きる、それは苦楽であるということを先人は、「苦あれば楽あり、楽あれば苦あり」と訓えてくれています。それが、私たちの人生であり、生命の真実のありようかもしれません。
生きることは闘い 闘わないと滅びるのが動物種としての人間
生きる…それは闘いです。逃走か闘争か、それが動物種としての人間の本質です。動物は、子どもに生き抜く方法を教えるために、わが子を千仭の谷に突き落としたりして、生き抜くことを体に記憶させます。人間は、子どもの頃は親に保護されているので、あまり考えることはありませんが、一人前の大人に近づくにつれ、生きることを考えていくようになります。そして必然的に闘いの世界に投げ出されます。闘わないと滅びるしかありません。それが生きるということの真実です。よいとか悪いとかの問題ではなく、真実ですから、自分の生命を、どう生きていくかが大事になります。闘いに勝つ、つまり自分に負けないということで生き抜いていけます。
心の中の無限の希望、創造性、智慧を持つ太陽が存在することを念じ信じ続けること
負けない自分を作るためには、何よりも自分の可能性をあきらめず、信じ続けることです。私たちの心の中には無限の希望、光、創造性、智慧を持つ太陽が存在します。その見えない太陽を念じ信じ続けることです。
そのうえで正しい信念、目標、勇気、忍耐、行動、そして希望が必要です。何よりも「正しい」ということが大事です。例えば、強盗する勇気とか、人を殺す勇気とかは動物的勇気であり、人間の道に背いているため間違った勇気になります。お金持ちになりたいと言うのは正しい目標とは言えません。お金持ちになって、恵まれない人たちの役に立ちたいというのは正しい目標です。正しさの基準は、自分だけが潤うのではなく、自分も他人も潤っていく、つまり、自他共存共栄の思想が正しい生き方の意味です。そのためには、正しい知識・思想が必要です。そうした生き方を模索したのが、過去の思想家であり哲学者であり、宗教家でした。そしてその道を極めたとされているの人たちを、聖人(注2)と呼んでいます。
注2、聖人…一般的には世界の主要な宗教や哲学の開祖を指し、孔子、釈迦、イエス・キリスト、ソクラテスの4人を指します。彼らはそれぞれの時代や地域で人々を導く教えを説き、人類の文化や思想に多大な影響を与え続けています。
付録 マインドフルネス 「今を集中して目的に向かって評価せず生きる」ということ。マインドフルネスの創始者はカバット・ジン氏です。彼は日本で道元の禅を修学されたと言われています。それを基本にしてマインドフルネスを展開されました。禅は、不立文字(ふりゅうもんじ)という言葉を大事にし、文字や言葉に頼らず瞑想し、自ら悟りの世界に入るという教えです。もともとブッダの法華経(正確には天台、最澄の法華経)を比叡山で修行した道元でしたが、入唐後、法華経から離れてゆき、独自の教えを展開してゆきました。指標に頼らない瞑想を中心に行いました。「今」の自分が迷いと暗闇にある場合、指標のない瞑想を行うと迷いを抜けることができなるばかりか、迷妄は増すばかりとブッダは警告していました。ブッダは亡くなる直前に悲嘆にくれる弟子たちに「自ら(自分)と、法を頼りに生きなさい」と語ったそうです。その法はブッダが悟った生命・宇宙の真実の法であり、法華経で説かれれています。道元は主著「正法眼蔵」という書で彼の思想哲学をまとめていますが、亡くなる直前の日々は法華経の「如来神力品・にょらいじんりきほん」の一節を読誦し、住まいを「妙法蓮華経庵」と柱に書きつけていたと言われています。道元は最後、ブッダの根本の法華経を指標にしていたと思われます。
人間の意識できる世界はわずかです。例えば、私たちの身体を観察しても、「今」を意識できる身体感覚は1000分の1以下です。身体は無数の細胞で成り立ち、組織化され意識と関係なく動いています。消化器系、呼吸器系、循環器系、ホルモン、神経、脳、感覚器官などいくつもの組織化された系統があります。痛みや快という刺激が加わったとき、例えば「歯が痛い」と感じれば、その時、歯を意識します、おなかが痛くなると腹部を意識します。食べ物を食べておいしいと感じるとき、味覚を意識します。花を見て、きれいと感じた時、花を味わう心を意識します。また、心はどこからとも起こり、喜んだり、悲しんだり、落ち込んだり、落ち着いたりするなど意識と関係なく生起し流れてゆきます。意識はいつもほんの一部しか感覚したり思考したりすることができません。意識は「今」の一部しかとらえることができず、全体は感知できないのです。
カバット・ジン氏のマインドフルネスの卓越性は意識は全体を感知できない、部分しか感覚・思考できないと見抜いたところにあります。その実践は「ボディスキャン(身体観察瞑想)」に結実されています。ボディスキャンの実践で、部分と全体の違い、さらに部分と全体のつながりを悟った点にあります。その洞察は、ストレスの低減を可能にし、心身のリフレッシュをもたらします。彼のマインドフルネスは禅の学びから始まっていますが、独自の展開になっています。その独自性が世界に広まった理由だと考えられます。カバットジン氏の本物のマインドフルネスを学びたい方は、彼の主著「マインドフルネスストレス低減法」を読み、素直に実践すれば修得できます。
「今」の意識から、生命全体を覚知した人が釈尊・ブッダです。宇宙の真実の法を悟った人と言われています。ブッダのことを仏と言います。この宇宙には三世の諸仏が存在すると釈尊が表現したように、無数のブッダが存在します。「今」の瞬間の生命に脈打つ法こそ三世の諸仏・ブッダが悟った真実の法です。それを指標に「今」を生きることで、「今」の意味が分かるとブッダは語りました。「今」がわかれば、どんな苦しみも乗り越えられます。また「今」がわかれば、楽しく生きることができるとブッダは教えてくれています。「今」については、このブログでさらに考察してゆきたいと思います。
〇筆者の生命哲学研究歴… 広島大学総合科学部(一期生)在学中から、哲学、文学、天文学、思想、日本人の行動様式論、生と死の宗教(主としてキリスト教と仏教)、森田療法、フロイト・ユング深層心理学、認知行動療法、仏法生命哲学を研究してきました。深層心理学と仏法生命哲学研究歴は50年を超え、ここ10年は量子力学、身体科学と仏法生命科学(中心は法華経)の関係性を重点的に研究し、実践しています。修行と学びの旅は今も続いています。
戦争、殺人は いじめの極致なのに 平和な日本では 関心が薄い
最近、高校生や中学生のいじめの動画がSNSで拡散され話題になっています。また、ロシアやガザ地区の戦争も収まらない中、アメリカファーストを掲げる強者トランプ大統領は、弱国ベネズエラを攻撃し、大統領を拘束し、罪もない無辜の民を100人以上殺したと報道されています。この行為に、あなたは正義や人道を見ることができますか…弱肉強食の動物の本性そのものであり、私は、それらの行為に人間性を見ることはできません。いじめの極致です。もし、この宇宙に生命平等の法があるのなら、戦争で人を殺す人は極悪人と裁かれ、極刑に処されるでしょう。しかし、現実の世界は戦争で勝利する強者は帝国主義者の王様で、裁かれるどころか、英雄あつかいにする人も少なくありません。悲しいことですが、それが世界の歴史の事実であり、「強者こそ正義なり」が現実世界の常道になっています。つまり、強いものが弱いものをいじめ、傷つけることは悪いことではないという考えにつながります。
こうした弱肉強食まるだしの極悪非道の殺人を伴う戦争より、大分の中学生のSNSの動画の暴力行為のほうを大騒ぎし関心を強めているのが日本の現状です。一方は大量殺人、かたほうは暴力、どちらもいじめに共通する弱肉強食の動物性の本能から発していますが、天地雲泥の差があります。人間は距離が遠くなると「対岸の火事」のように傍観者になります。本質を見ない傍観者がいじめを助長しています。家庭の中で親が、こうした戦争がいじめの極致であり、どれだけ人間性を低下させる魔の行為であることかを教えていけば、いじめの防止につながってゆくと考えられます。
いじめは、弱肉強食の愚かな人間の本能から起きる
動物でもやらない虐待やいじめや殺行為を、なぜ人はすることができるのでしょうか。そこには人に潜む動物性と魔性があります。それは、人がそうした行為をするとき、人間の良心が何かに乗っ取られ、支配されているからです。人でありながら人としての道理や倫理規範が全く消失しています。その時、人間は人間の皮をかぶった最悪の動物、魔物になっています。この世界で最も怖い存在は間違いなく人間と断定できます。
動物を超える人間の残虐性は知識の産物
動物を超える殺行為や残虐性は人間の知の優越性にあります。殺人のための武器をつくり、原子爆弾をつくって自分や自国を守り、他人や他国を攻撃しようとします。動物の中の知的優者人間が地球の動物を支配しています。どんなきれいごとをいっても弱肉強食の動物性に基づいた行為、それが見境なく人殺しをする戦争であり、いじめです。そして被害者は弱者の子供や女性や立場の弱い人たちです。最悪は、こうした大量殺人する強者は、誰も裁くことができないという現実です。国連も絵に描いた餅にすぎません。誰も止めることができていません。今日まで、多くの人々は、その防止を神に祈り、偉大なる神の力の発動を願ってきましたが、未だにその福音は地上もたらされていないようです。
悪と戦う正義の勇者も同じ人間
それを止められるのは、やはり人間なのです。歴史上でも、その悪魔性の人間に立ち向かった人は数多くいます。「走れメロス」の勇者メロスも、臣下を簡単に殺す暴君と戦います。しかし、あくまで作者の願望であり理想世界の表現にしかすぎません。最近の人では、アメリカのキング博士、インドのマハトマ・ガンジーなどが有名ですが、いずれも凶弾に倒れました。また数多くのデモ行進も正義を訴えた行動ですが、権力者の武力によって鎮圧されています。
悪の野蛮性が勝つか、人間の善性が勝つか、この世界は常に死闘なのです。正義がなくなれば、この世は悪の支配する暗黒の世界になってゆきます。第二次世界大戦下の日本やナチスドイツ支配下の世界などが、まさに暗黒の闇の恐怖に凍りつくような世界だったと思います。そうした世界では野蛮ないじめが横行し、人間が同じ弱い立場の人間をおもちゃ扱いにしたり、平気で殺したりしてゆきます。私たちは今、ベネズエラやウクライナやガザ地区の子どもたちや女性などに、その悲惨を見ています。同じ人間として、心が痛くなり、涙が止まりません。
人間も弱い動物を殺し食べる畜生の心身をもっている
どんな人も、自分は動物性を持っていると自覚することが、いじめ防止の第一歩になります。人間も動物の一種です。生きるために、食べる、寝る、生殖活動をするという本来的能力が生まれた時から遺伝子に組み込まれています。生きる為には身を保たなくてはなりません。食べ物を確保するために、肉食動物は弱いもの見つけ、殺して食べます。生きる為に遺伝子に組み込まれた殺本能です。
動物種の人間も弱い存在を傷つけたり殺したりします。どんなきれいごとをいっても、同じ動物種でありながら、私たちは、間接的ですが、弱い動物を殺して食べています、豚、牛、鶏、羊、馬、魚など…。牛や豚などは、殺される前に強い恐怖を感じ泣き叫びます。情(神経による感覚反応が動物には具わっている)があるから恐怖に苦しみます。その恐怖心は人間も豚や牛も同じです。
真の仏教者(注1)が肉食をしなかったのは、動物を損傷し、恐怖や苦を与えることが生命の法則から見た悪行だと知っていたからです。しかし、私たちは生命の真実の法を知らないから、平気で、「おいしい」と言って食べることができます。
(注1)真の仏教者…この宇宙の真実の生命の法を覚知し、その法で人々に影響を与え、実際に多くの人を救済した慈悲の行動者のこと。仏教史上では、釈尊(ブッダ)、竜樹、天親、天台、最澄、日蓮などと言われています。生命の真実の法によると、有情(神経を持つ存在は恐怖と苦を感じる)の殺行為は悪の一つとされています。悪とは、他者を損傷し、恐怖や苦しを与える行為です。仏法生命論からみれば、他者の損傷は自らの生命の損傷に還ってくるという原理(依正不二の生命論・付録1)から、やがて自ら苦しむ結果をもたらすと説いています。
強い国は弱い国を平気で攻め、それが自国の正義であるかのような感覚で多くの人を殺します。「自国ファースト」とか言って、大量に人を殺します。その時、人は人ではなく、ものとみなされています。同じ人間だという自覚があれば、どんな状況であっても人を殺したり、いじめたりはできません。いじめやその極致である殺人は、人をモノとみることで行われます。人をモノ化してみることを人間の魔性(注2)(奪命者)とブッダは洞察していました。
(注2)人間の魔性…仏法生命論によれば、魔は「第六天の魔王」(付録2)と表現され、誰人の生命にも潜在する働きと言います。「魔がさす」というのもその働きの一部です。第六天の魔王は欲望世界の頂点に君臨し、別名「他化自在天」(たけじざいてん)といいます。つまり他者を自由に支配し、もののように扱う働きです。人間の欲望の頂点の一つは権力です。権力者はこの他化自在天に操られやすくなります。だから、多くの人を殺すことができます。それは今も歴史も証明する事実です。
人間としての思いやりと慈悲心がいじめを防止する
「己の欲さざることを人に施すことなかれ」(自分のしてほしくないことを、人してはいけない)孔子の論語に収められたこの言葉は中高時代に学んだ一節だと思います。どんな状況下にあっても、この言葉の内容が実行できれば、いじめはなくなりますし、戦争もこの世界から消滅します。弱肉強食の愚かな畜生性を持つ人間性を克服するのは、同じ人間と観る平等感から発する人間としての思いやりのこころであり、慈悲心です。しかし、知識だけではいじめは克服できません。道徳教育で防止できていない現実を見ればわかると思います。もちろん、道徳教育も一定の効果は発揮している思いますが…。家庭教育、学校教育、社会教育、環境教育、生命教育という総合教育とその実践の中に培われる高い人間性の修得過程の中で培われる智慧(注3)が鍵になるからです。人格者はいじめも殺人もしません。
(注3)智慧…知識は過去であり固定化された物質的なものです。脳内の記憶の蔵に収まっている本のようなものです。いくら知識量が多くても変化し流れゆく現実の問題を解決する力にはなりません。学歴が社会で役に立たないと言われるのは、そこに原因があります。ですが、知識は物事の解決に必要であること間違いありません。問題を解決する場合の選択肢になるからです。智慧は現実解決の力であり、柔軟性があります。問題解決力、対処力、処理力と言えます。現実の壁を乗り越える力であり、困難を超える力であり、人生を生き抜く力が智慧なのです。臨機応援の対処力が智慧です。ハウトゥーものは、あくまで知識ですから、実際の役に立たないのは、ここに原因があります。人間関係力は智慧によります。いじめ防止にも智慧が必要です、知識では止められないからです。知識より大事なものが智慧になります。それは現実生活の体験の中で知識を使い続ける経験と自省の中で身につくものです。自分や他人を高める有益な習慣力は智慧の結晶とも言えます。名門大学を出ても智慧のない人はたくさんいます。また中学卒の人の中にも豊富な智慧を持つ人はたくさんいます。人生で大事なものは知識より智慧であり、最も偉大な智慧は慈悲(他者の苦しみを抜き楽を与える行為)から生まれるとブッダは言いました。
怒りがいじめや殺人を引き起こす
自分の思うようにいかない時に発する怒りがいじめや殺人につながります。人間は簡単に怒りに良心を乗っ取られてしまいます。怒ると人間は冷静さを忘れ、最悪の場合、他の生命を破壊したり殺したりします。怒りは破壊につながる怖さを持っています。
しかし、相手が自分より強い人や立場が上の人に対しては、その怒りを出すことができません。自分の心の中にしまい込み、その怒りを出せる相手を見つけた時、自分より弱い立場の人にぶつけます。世に言う「八つ当たり」です。虐待は強い立場の親が弱い立場の子どもに向けられます。いじめも相手が自分より弱い立場にあると認識する時にできる行為です。その心は弱肉強食の畜生性ですが、「集団で一人の弱い立場ある人を卑劣なやり方で攻撃する」「幼児に熱湯をかける」などの過剰なやり方の残酷さは畜生以下の生き物というしかありません。人間にはなまじっか「知」があるから、残虐性も他の動物より酷くなります。ブッダは怒り(瞋り)は地獄をもたらすと言いました。
子どもが思い通りにならず、一晩中泣き叫ぶ場合でも、虐待する人としない人がいます。その分かれ道はどこにあるのでしょうか。いじめも同じです。加担する人としない人に分かれます。それは人間性で決まります。 人生の中で心にしっかりと積んだ徳。弱い立場の人を守る、弱い立場の人を攻撃しない、自分が強い立場にあるだけで、相手にとって脅威の存在になっているということを自覚している人は虐待したり、人をいじめたりしません。 その根底には人としての正しい思想があります。自分も相手も、たとえ子どもや赤子であっても痛みや喜び感じる同じ人間存在であるという知を持ち、怒ったときもそれを思い出し、行動を抑制できます。それを智慧と言います。
こうした抑制力は環境の中で培われます。特に家庭環境に強い影響性を持つ親の存在は大きなものがあります。親の行動や声や言葉は、子どもの五体、毛穴からも染み込み、子どもの心に深く入り、子どもの思想を形成します。 虐待の連鎖、虐待は親から子に伝わるとは、このことを指しています。世にいう「アドルトチルドレン」とか「インナーチャイルド」とか「機能不全家族」とか「毒親」いう言葉は、これらを指しています。 いじめの場合は、本人にかかっているストレス解消などの要素があります。
しかし、虐待された子どもが、虐待する親に必ずしもなるわけではありません。連鎖の中に入るのは、ごく一部というが正確な事実です。私は、多くの虐待する親と、その子どもを見てきましたが、比率からすると、連鎖は3割以下といってよいでしょう。中には、虐待を受けた子どもが、自分の体験から学び、同じことを子どもにさせたくないと、立派な親になっている人も見てきました。一方、虐待の親よりも進化して、ひどくなる人もいます。その違いは、どこにあるのでしょうか。
ここが一番の重要な難所です。専門家もここが解けないので、適切な手立てが組めていないのが現状です。人が育っていく要因には、家庭環境要因、学校環境要因、社会環境要因、人的環境要因、素質的要因などが微妙にからみあっています。一つだけに特定すると部分観に陥ってしまいます。物であれば部分観が通用しますが、人間は常に全体という調和の中で生きているから部分観では解決できませんし、そうした部分の分析知では、間違いすら起きてしまいます。
生まれながらの差異や違いをどう昇華させてゆくかが大事
これらの要因の中で大事なのは、人的要因と素質的要因です。なかんずく素質的要因が大事になります。これは心の深層と関係している難問であり、あらゆる病気や悲劇の要因の一つです。なぜ難問なのか、それは不可思議な生命そのもの真実性の解明が求められるからです。1ミリにも満たない精卵細胞に全ての種子が内在している事実は不思議というしかありません。ここにはあらゆる生命の持つ神秘性が隠されています。
つまり生命誕生のなぞと死後の生命のなぞ、そしてその二つをつなぐ生命の一貫性の謎です。今生きている生命が死後どうなっていくのか、今の生命が五つの感覚(眼・耳・鼻・舌・身)と意識という肉体を通して顕在する働きの感受と認識を失ったとき、つまり肉体の死=死ですべてが終わるのか、それとも記憶を貯蔵していた脳は焼失しますが、無意識層に蓄えられた行為の全体が心法(注4)として死後も潜在して続き、今の生と似たような環境を得て顕在化するのが、この仏法生命論の見解です。3000年前、インドの菩提樹の下での釈尊の哲学的悟りは、「自身の我(が)は永遠である」「自身の我は、何ものかに作られたものでもなく、我は永遠の昔から存在し、永遠に続いていく」「自身をつくったのは自身の内なる法…サ・ダルマ・プンダリキャ・ソタランである…名訳者が翻訳=妙法蓮華経」というものでした。この哲学的悟りから東洋思想・東洋哲学・東洋医学は発展したと言われています。
(注4)心法…見えるかたちや肉体を支えている見えない、分析できない働きをいう。魂とか霊魂などという皮相的な言葉では表現できない働き性質を持つもの。私たちの体は、脳や神経、各臓器、血液、ホルモン、リンパなどが調和統合されて生を保っています。その調和、統合している働き、また肉体そのものを動かしている働きを心法と言います。意識ではありません。意識は心法のごく一部の働きにすぎません。生きているときは、肉体と心法は一体ですが、肉体がなくなったあとは心法は冥伏(みょうぶく)・潜在し、「空・くう」の状態で、心法は永遠に続きます。自分にふさわしい形(肉体)を見つけて再び顕在します。今世の生き方の「心法」が来世も続きます。畜生性の強い生き方をした人は来世は畜生のかたちを得、人間らしい生き方をした人は人間の形になるとるなどとブッダは法華経比喩品で説きました。それを自業自得と言います。「今まで死んだ人はいない。エネルギーは不滅だからです。一つの形から別の形に変わったにすぎません」と物理学者ニコラ・テスラは言いました。心法をエネルギーととらえるとわかりやすいかもしれません。
飢餓感に似た欲望に支配された時、人は人を損傷したり殺したりする
飢餓感に襲われ、それをはやく満たそうとするとき、人間は、見境なく欲望を達成するために対象に一直線に向かいます。思い通りにするために他者を利用します。相手が同じ人間であることなど、自分の欲望達成のためには毛頭も考えません。相手を傷つけても平気な精神状態になります。痛みも感じません。だから虐待やいじめが平気でできるのです。窃盗、強盗、ストカー殺人の原因はここに潜んでいます。その本質は「貪り」の生命とブッダは洞察しました。
以上の三つの人間の持つ悪魔性(畜生性のもつ愚かさ、貪り=むさぼり、瞋=いかり)を調整できれば虐待やいじめは防ぐことはできます。
付録1「依正不二・えしょうふにの生命論」…「依」は依法で正法を取り巻く環境世界、「正」は正法で主体、自分という意味です。その二つは二つに見えますが常に同時に出現するという考えです。自分は一方は自分という主体、一方は環境という主体の影のような存在です。主体が曲がれば影は曲がります。主体がまっすぐであれば、影もまっすぐになります。この生命論は変革の原理と言われています。つまり、主体の自分が変われば環境も変わります。私は、人生の中で、何度もその哲理の真実を実感しています。近い言葉に身土不二があります。
付録2「第六天の魔王」=他化自在天(たけじざいてん)。人間生命の欲望の頂点に存在する生命の働きを言います。人間を含めた宇宙の生命現象は破壊性と創造性の二つで織りなされています。それは生と死という現象で説明できます。どちらも生命の持つ二面性であり、もともと具わっている働きです。闘わないと破壊性・魔性にこの世は支配されるとブッダは達観され、生涯、人間性の魔性と戦い抜かれたと言われています。魔性に勝てるのは生命内在の仏性・(仏の働き=創造性・蘇生力)しかないとブッダは言われました。
〇筆者の生命哲学研究歴… 広島大学総合科学部(一期生)在学中から、哲学、文学、思想、日本人の行動様式論、生と死の宗教(主としてキリスト教と仏教)、森田療法、フロイト・ユング深層心理学、認知行動療法、仏法生命哲学を研究してきました。深層心理学と仏法生命哲学研究歴は50年を超え、ここ10年は量子力学、身体科学と仏法生命科学(中心は法華経)の関係性を重点的に研究し、実践しています。修行と学びの旅は今も続いています。
「今」を評価せず集中して生きる…マインドフルネス
マインドフルネスの影響もあって、「今」を集中して生きるという言葉が流行っています。心理学、健康学、企業研修や教育の世界でもマインドフルネスは盛んです。テーマは「今を集中して目的に向かって評価せず生きる」ということです。実践することで、以前より集中力が増したという声は聞きます。しかし、よくよく考えてみると、「今」とは何かが、誰もわかっていませんし、説明できていません。マインドフルネスの創始者はカバット・ジン氏です。彼は日本で道元の禅を修学されたと言われています。それを基本にしてマインドフルネスを展開されました。しかし、彼は「今」を深くは掘り下げてはいません。
マインドフルネスと仏教の禅の関係
禅は、不立文字(ふりゅうもんじ)という言葉を大事にし、文字や言葉に頼らず瞑想し、自ら悟りの世界に入るという教えです。もともとブッダの法華経(正確には天台、最澄の法華経)を比叡山で修行した道元でしたが、法華経から離れてゆき、独自の修行をしました。自分の意識が頼りであり、指標に頼らない瞑想を中心に行いました。「今」の自分が迷いと暗闇にある場合、指標のない瞑想を行うと迷いを抜けることができなるばかりか、迷妄は増すばかりとブッダは警告していました。
ブッダは亡くなる直前に悲嘆にくれる弟子たちに「自ら(自分)と、法を頼りに生きなさい」と語ったそうです。その法はブッダが悟った生命・宇宙の真実の法であり、法華経で説かれれています。道元は主著「正法眼蔵」という書で彼の思想哲学をまとめていますが、亡くなる直前の日々は法華経の「如来神力品・にょらいじんりきほん」の一節を読誦し、住まいを「妙法蓮華経庵」と柱に書きつけていたと言われています。道元は最後、ブッダの根本の法華経を指標にしていたと思われます。
20世紀最大の科学者も「今」を解明していない
アインシュタインは「時間はない、あるのは今だけだ。時間は物質の変化にすぎない」と言ったそうです。私たちが生きているのは「今」だけだということを彼は言いました。またニコラ・テスラは「この世で死んだ人はいません。なぜならエネルギーは不滅だからです。一つの形から別の形に移ったにすぎません」とインタビューで答えたそうです。つまり、彼は生命は永遠に「今」が続くと言いました。しかし、その「今」とは何かは説明していません。大科学者にしても、「今」は究明できなかったのです。「今」とは私たち生命のことです。「今」がわかることは、この不思議な生命がわかることと同じことです。
「今」と意識の関係…哲学者デカルトのとらえた我(われ)
「今」を感じることができるのは意識です。受信した感覚を鋭敏にし、言葉で考え、イメージし、行動に結びつける意識が「今」の入り口であり、「今」の一部分です。「今」の全体ではありません。デカルトの「我(われ)思う故に我あり」という言葉は、「今」考えている意識こそ、真実であるというのことです。それこそが自らの存在を確かにするものであると結論づけました。デカルトの論理的思考は、近代哲学の幕開けと言われています。「今」は意識の思考で成り立っているといっても、その意識とは何かが未だにわかっていません。わかっているのは、意識は脳を介して起きる心の現象ということだけです。
私たちの意識は1000の1も「今」をとらえていない
人間の意識できる世界はわずかです。例えば、私たちの身体を観察しても、「今」を意識できる身体感覚は1000分の1以下です。身体は無数の細胞で成り立ち、組織化され意識と関係なく動いています。消化器系、呼吸器系、循環器系、ホルモン、神経、脳、感覚器官などいくつもの組織化された系統があります。痛みや快という刺激が加わったとき、例えば「歯が痛い」と感じれば、その時、歯を意識します、おなかが痛くなると腹部を意識します。食べ物を食べておいしいと感じるとき、味覚を意識します。花を見て、きれいと感じた時、花を味わう心を意識します。また、心はどこからとも起こり、喜んだり、悲しんだり、落ち込んだり、落ち着いたりするなど意識と関係なく生起し流れてゆきます。意識はいつもほんの一部しか感覚したり思考したりすることができません。意識は「今」の一部しかとらえることができず、全体は感知できないのです。
カバット・ジン氏のマインドフルネスは部分と全体のつながりをとらえている
カバット・ジン氏のマインドフルネスの卓越性は意識は全体を感知できない、部分しか感覚・思考できないと見抜いたところにあります。その実践は「ボディスキャン(身体観察瞑想)」に結実されています。ボディスキャンの実践で、部分と全体の違い、さらに部分と全体のつながりを悟った点にあります。その洞察は、ストレスの低減を可能にし、心身のリフレッシュをもたらします。彼のマインドフルネスは禅の学びから始まっていますが、独自の展開になっています。その独自性が世界に広まった理由だと考えられます。カバットジン氏の本物のマインドフルネスを学びたい方は、彼の主著「マインドフルネスストレス低減法」を読み、素直に実践すれば修得できます。
「今」の意識から「今」の全体をとらえたブッダ
「今」の意識から、生命全体を覚知した人が釈尊・ブッダです。宇宙の真実の法を悟った人と言われています。ブッダのことを仏と言います。この宇宙には三世の諸仏が存在すると釈尊が表現したように、無数のブッダが存在します。「今」の瞬間の生命に脈打つ法こそ三世の諸仏・ブッダが悟った真実の法です。それを指標に「今」を生きることで、「今」の意味が分かるとブッダは語りました。「今」がわかれば、どんな苦しみも乗り越えられます。また「今」がわかれば、楽しく生きることができるとブッダは教えてくれています。「今」については、次回以降さらに考察してゆきたいと思います。
〇筆者の生命哲学研究歴… 広島大学総合科学部(一期生)在学中から、哲学、文学、思想、日本人の行動様式論、生と死の宗教(主としてキリスト教と仏教)、森田療法、フロイト・ユング深層心理学、認知行動療法、仏法生命哲学を研究してきました。深層心理学と仏法生命哲学研究歴は50年を超え、ここ10年は量子力学、身体科学と仏法生命科学(中心は法華経)の関係性を重点的に研究し、実践しています。修行と学びの旅は今も続いています。
楽しいこと、おもしろいこと、心地よいことを求めて、私たちの心は外の世界に向いている
私たちは楽しいこと、おもしろいこと、快適なことを求めて生きています。それは苦を避け、楽に生きたいという人間本能の働きによります。お金がほしい、いい服を着たい、おいしいものを食べたい、家が欲しい、車が欲しい、旅行に行きたい、ライブに行きたい、スポーツ観戦に行きたい、ゲーム・ギャンブルをしたい、お酒を飲みたい、社会的地位を得たい、有名になりたい、人に認められたい、友達がほしい、異性がほしい、旅行に行きたい、いい高校に入りたい、いい大学に合格したい、いい会社に就職したい、平和に生きたい、きれいになりたい、健康になりたい、癒されたい、苦しみから解放されて楽になりたい、好きなことを思いっきりやりたい、幸せなりたいなど…。そのために目はいつも外を向いています。しかしそれらを得ることができたとしても、喜びは泡のように消え去り、長続きしません。多くの人は、求めるものを得ることができない苦しみを味わっています。人生は苦楽をめぐりながら進みますが、あなたはどちらを多く感じて生きていますか?
どこにいても 何をやっていても いつも楽しい境地になるために
どこにいても、どんな環境にあっても 何をやっても楽しく 自在で、面白く生きることができる、生きていることが楽しくてしかたがないという境地になることを「衆生所遊楽」(法華経)(しゅじょうしょゆうらく)と言います。私たちが人間としてこの世に誕生した目的は、その実現にあるとブッダ(注1)は説きました。そして、その実現は慈悲(注2)に生きるときに叶うと教えてくれました。
私たちは、この世に誕生したとき、わずか直径0,1ミリほどの一つの精卵細胞という微小な存在でした。それがいつの間にか40数兆個の細胞となり見事な秩序ある身体組織を形成し、50キロを超すほどの体になっています。これらの不思議な創造的な働きを生命の持つ慈悲といい、智慧といいます。この宇宙のすべては、慈悲と智慧によって産みだされたとブッダは語ります。
この世界、自然、宇宙の現象をありのままに見るためには 浄化された生命が必要
このあまりにも不思議な働きをユダヤの人たちは、人間の心の外に見い出し、神・ヤハウェと名付け、万物の創造主としました。それに対してブッダは宇宙につながる法が、わが心の中にもあると直観したのです。誰人にも内在する不思議な力であるからこそ、その法を覚知できれば、人は自力で自分の運命・宿業を変えていけると説いたのです。この世界のあらゆる言葉も思想も宗教も、すべて人間の思考から始まっています。存在する言葉、思想、宗教は人間が生み出した言葉で形成されたものであり、人間以外の産物ではありません。
(注1)ブッダ…悟りを開いた後、釈尊(しゃくそん)、仏陀と呼ばれるようになりました。ブッダは、釈尊一人を指すのではなく、過去・現在・未来という三世(さんぜ)の宇宙には無数のブッダがいるとされています。ブッダとは、生命の永遠性と無量の智慧を直感し、その智慧と慈悲の力で、多くの人々を実際に救済した人のことです。
慈悲は智慧を生み出すとブッダは説き、その智慧は甚深無量(じんじんむりょう。無量で果てしないという意味、法華経の言葉)であり、慈悲の心はすべての生物を救う大悲(たいひ)と説きました。また「慧光照無量」(えこうしょむりょう、法華経の言葉)、簡単に説明すれば、智慧の光は、宇宙の無限まで照らしゆくと説きました。生命が発する光です。
「一切衆生の異の苦は如来一人の苦」と語ったブッダ。その意(こころ)は、すべての生きとし生きるものの苦しみは、私一人の苦しみであるとして衆生救済に生涯を捧げました。その尊い慈悲の振る舞いを仏(ほとけ)と言います。仏とは奈良の大仏のような偉大な人間離れした存在ではありません。人間性の極致である、尊く美しい慈悲の振る舞いを表現した言葉です。あくまで、仏は人間であるとブッダは強調されました。そして、弟子たちに自分と同じ仏の境涯に至る道を慈悲と智慧で教えました。
歴史上にも、ブッダの悟りに限りなく接近した菩薩と言える人がたくさんいます。例を挙げると、ソクラテス、孔子、ガンジー、アインシュタイン、ニコラ・テスラなどです。ニコラ・テスラ(1856-1943,交流電圧など200以上の発明者・詩人・哲学者)は数多くの発見発明をし、人類に貢献しましたが、それ以上に彼の生涯の生きざまや振る舞いから、彼の慈悲と智慧の偉大さを私は感じます。テスラは言います。「存在とは光の無限の形象の表現です。なぜならエネルギーは存在より古いからです。そしてエネルギーによって、すべての生命は織りなされたのです。」エネルギーは、生命であり、混沌とした煩悩であり、光であり、智慧であり、慈悲なのです。生命の最高の表現(エネルギーの形象)は、智慧に裏打ちされた慈悲の振る舞いです。それを如来・仏と言います。(注1)終り
(注2)慈悲(じひ)…釈尊が涅槃経(ねはんぎょう)で説いた言葉です。抜苦与楽(ばっくよらく)といい、苦しみを抜き楽を与えるという意味です。生命は不思議なエネルギーの流れであり、混沌(こんとん)として過去の記憶の蓄積したもので流れています。私たちは、その流れを、快、苦、快でもない苦でもないという三つを受信し、その対象を意識で鮮明にして生きています。
動物・人間は快を求め苦を避けますが、苦は避けることができません。人の五つの感覚(視覚、聴覚、舌覚、嗅覚、触覚)の受信能力には限界があり、思い通りにならない障りが多く、意識は苦を避け、快に偏る傾向があります。快は楽や心地よさをもたらすからです。しかし、生命は快と苦の絶妙なバランスで流れていますから、その偏りや執着から苦が生まれます。慈悲は智慧の力で苦を解脱(げだつ)する力を持っていますから、苦は楽へと調整されてゆきます。それを抜苦与楽の慈悲の働きといいます。身体的いえば、恒常性機能や免疫などの自然治癒力は慈悲による身体の智慧と言えます。
自分も救い 人々も救う尊い振る舞い…慈悲に生きる人によい智慧がわく
その慈悲を支えるものこそ、無量の智慧です。慈悲の振る舞いを菩薩と呼びます。弥勒(みろく)菩薩、観音菩薩、文殊(もんじゅ)菩薩、普賢(ふげん)菩薩など、三世にはたくさんの菩薩がいます。弥勒のことを救済者・メシア(イエス・キリストはメシアと呼ばれていた)とも言います。太陽や地球は地上の生物を慈しみ育む慈悲を行じ、私たちの生命を救う菩薩の働きをしています。太陽神、水神、風神、地神、海神などの自然崇拝は、人間の素直な感謝の心から発したものでした。それを宗教心と言います。
慈悲が人間品性の最高なものであり 美しい人間性
菩薩は他者の苦に共感し慈悲に生きる人です。仏は宇宙の法を悟り、その法に生き、それを人々に教え、生きる最高の喜びを産み出す人生を教える人です。それを最高善とも言い、如来(にょらい)ともいいます。京都の三十三間堂には、たくさんの菩薩像や如来像が安置されています。それは、彼らが、人々の尊敬と憧れの対象だったからです。すべて素晴らしい素敵な人たちであり、私たちの模範であり、目標の人たちです。私たちの心の中にも潜在する素晴らしい働きなのです。(注2)終り
創造は慈悲であり 破壊は無明煩悩の働き
慈悲は美しい秩序であり、調和をもたらします。慈悲は心が産み出す人間美の芸術です。慈悲ある人は内面から、素敵な輝きを放ちます。慈悲は絶えず変化し、更新される美しさです。私たちの生命は、もともと創造性と破壊性の二面を持っていますが、破壊性を創造性に変えゆく智慧を秘めています。その力を慈悲と言います。慈悲とは万物を産み出し育み慈しみ守り、苦しみを抜く大悲の智慧です。赤ん坊を無心に守り慈しむ母の振る舞いも慈悲です。慈悲は智慧を生みます。
人間の最も美しい品性は慈悲です。昔の日本人が愛してやまなかった観音菩薩は慈悲の体現者の象徴でした。桜の花を見て心を癒されるのは、桜の持つ慈悲の働きを私たちが感じるからです。すべての生物は、本来その慈悲の智慧力を内在しているとブッダは覚知しました。そして、それを私たちの生命に汲み出す方法を教えてくれました。
宇宙や自然はすべて素粒子で構成され 複雑な神秘的な振動をしている
宇宙の現象はすべて、振動する素粒子の働きで成立しています。ブッダは、この宇宙の振動を覚知していました。浄化された生命で、今の振動数を悟ることができれば未来の結果が見えてきます。だからブッダは未来2000年先の法の流れを予言(大集経にまとめられている)し、それを現実に的中させています。ニコラ・テスラやアインシュタインも、宇宙の存在物はすべて振動していると明察していました。
現象を起こしている目に見えない流れをとらえる言葉として仏法生命科学は「即・そく」を使います。あくまで、言葉は比喩ですが、言葉で表現しないと他者には伝わらないからです。有名な「色即是空・しきそくぜくう」(般若心経…般若は智慧という意味で目に見えない働きを指す。「色・しき」=色法=分析できる形をもったもの、人間で言えば身体。空・くう=「色・形あるもの」を支える見えない働き、人間で言えば心。その二つは、つまり一体である、その一体性を表わす言葉が「即」になります)は、この「即」を理解すれば生命の妙がわかります。即とは「妙」という不思議な目に見えない働きをするものとブッダは説きます。生命の流れは混沌とした煩悩の流れですが、慈悲に生きるとき喜びに変わります。煩悩が喜び、悟りになります。それをブッダは、煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)と悟りました。菩提は悟りという意味であり、生命エネルギーの最高の振る舞い、智慧のことです。
病は 偏り、執着という部分へのとらわれが産み出した一時的な不幸の現象
偏りや執着は秩序を乱し、病を招きます。過剰や不足はバランスを崩し、心身を不調にします。生命の本来の秩序を知ることが何よりも大事です。科学を信じて生きている私たちは、部分観に生きざるを得なくなっています。科学は部分の分析から法則を発見し、私たちの生活に利益をもたらすという実証を示しているからです。分析された対象は真実です。しかし、ものごとの全体をとらえてはいません。意識し分析できる世界と、意識を超えて分析不能な広大な世界の働きに目を向けることが大事になります。部分と全体のつながりを知ることが、健康になるための必須の条件です。
真の健康は慈悲に生きることにある
真の健康には、いかなる財宝や名声にも及ばない、喜びと心の躍動と調和の美があります。それは心の中に、もともと潜在する慈悲と智慧が現れたものにすぎません。これを「無上宝珠不求自得」(法華経)(…無上の宝珠は求めざるに自ずから得たり)とブッダは説きました。宇宙最高の宝が、私たちの生命にもともと存在しているということです。その宝こそ、慈悲と智慧のエネルギーなのです。慈悲は創造するエネルギーとも表現できます。その慈悲を私たちの生命に湧き出させる方法はブッダに学ぶのが一番です。自力で学び修行し、自らそこに到達するには、一生をかけても到達できないかもしれません。正しい先人の智慧に謙虚に学ぶのが早道です。正しいことが大事になります。正しくないと努力が徒労に終わるばかりか、偏りは執着を作り、不幸の原因になります。智慧と慈悲の瞑想を芝蘭の室では実践しています。具体的には、身体瞑想、自然宇宙瞑想、知恩瞑想、詩読誦瞑想の四つを行います。
コラム…周波数(ここではリズムを同じ意味で使っている)…一秒間に振動する数、単位はHz(ヘルツ)、私たちの脳波は通常、シーター波(4~8Hz、まどろみ時)、アルファ波(8~13Hz、リラックス時)、ベーター波(13~30Hz、活動時)、ガンマ波(30Hz以上、緊張、興奮時)の周波数が中心になっていると言われています。癒しの周波数は、528Hzと言われ、リラックス効果やDNAの修復が期待される奇跡の周波数という学者もいます。また432Hzは、自然の周波数や宇宙の響きと呼ばれ、心を落ち着かせ、感情を穏やかにする効果があるという学者もいます。人間が耳で聞くことができる周波数の範囲は、20~2万Hzと言われ、出せる音は80~1100Hzと言われています。ちなみに蝙蝠は10万Hzの音が聞き分けられる音の超能力動物です。波動は振動を伝えるエネルギーです。
周波数が高いと波動も大きくなります。この宇宙で最も周波数が高い存在は、現代量子物理学の発見によると光とされ、400兆Hz(赤外線)から700~800兆Hz(紫外線)と言われ、思考や想像を超えた神がかり的な奇跡の周波数です。私たちは光で生きています。また微細な光を体から出しています。それをバイオフォトンと学者は名付けています。生命は不思議です。
こうした不思議な生命現象をブッダは「サ・ダルマ」(妙法…漢訳)と名付けました。ブッダのいう法とは、人間の感覚では感知できませんが、確かに存在し変化を生み出す働きを言います。科学は、あるものごとや現象を理論として仮説し、それを実験・実行し、その仮説の正しさが証明され、現実に適用して効果を発するものと定義できます。ブッダの説いた仏法(生命科学理論)は、それを正しく実行すれば、慈悲と智慧が生命に流れることによって結果が出てきます。例をあげれば苦しんでいる人がブッダの仏法を正しく実践した結果、苦しみから解放される事実が百発百中ということです。それを科学と言います。仏法は正しい理論に裏打ちされた科学です。量子力学がそれを証明しつつあると言われています。
〇筆者の生命哲学研究歴… 広島大学総合科学部(一期生)在学中から、哲学、文学、思想、日本人の行動様式論、生と死の宗教(主としてキリスト教と仏教)、森田療法、フロイト・ユング深層心理学、認知行動療法、仏法生命哲学を研究してきました。深層心理学と仏法生命哲学研究歴は50年を超え、ここ10年は量子力学、身体科学と仏法生命科学(中心は法華経)の関係性を重点的に研究し、実践しています。修行と学びの旅は今も続いています。
痛みや苦しみは不調和からのメッセージ
痛みや苦しみは心身の傷つきや不調が発する神経の電気信号によるメッセージです。電子メールのようなものです。執着は神経の疲労を招き細胞を壊します。思考や感情の偏りはバランスを崩し全体を見失わせます。心身の調和が乱れきった時、苦しみや痛みは限界を超え、心身は病みます。しかし、私たちは、その原因を突き止めようとせず、五感で受信した痛みや症状を除去しようとします。その結果、本質的な解決に至ることが難しくなります。智慧の瞑想は、不調和のメッセージの意味を読み取ります。
過去の記憶による反応行動から 今を意識して生きることで 健康になっていく
「木を見て森を見ず」という言葉があります。森に入れば目の前の木しか見えなくなります。これは人間の感覚反応の現実であり、また限界です。人間が鳥のように空を飛べないのと同じです。森全体を見ようとすれば想像力を働かさなければ見えません。私たちは、基本的には「井の中の蛙・かわず、大海を知らず」の感覚で生きています。感覚が受信する、ごく一部の世界を、物事の全体と思ってしまいます。それは神経や脳の働きが過剰になり壊れるのを防ぐためです。私たちが生きている現実は、ほとんどが記憶と過去の知識による感覚反応による自動操作的な行動です。井の中の蛙である私たちが大海を見ようとするなら、正しい知識に基づいた想像力を遣うしかありません。井の中から見る世界は部分であり、大海は生命全体を指します。それが反応から、対処(智慧)の生き方に変わる鍵になります。その生き方を継続することで新しい自分が創られていきます。新しい自分を作ることができれば、いかなる心の病も治すことができるとブッダは教えてくれました。
瞑想のやり方を間違えると 迷妄の世界に入り 心の病は増幅する
最近、瞑想が流行していますが、瞑想の本質がわかっている人が、どれほどいるのでしょうか。心を病んでいる人が、安易に瞑想を行うと迷妄の闇の世界に入ってしまい、心の病は増幅することになります。本来、瞑想はインドの古代社会で実践されていた生命(煩悩)を浄化し、生命全体を直感することを志向するエネルギーを必要とする修行法の一つでした。釈迦・ブッダは、先人の実践に学びながらも、自ら独自の瞑想法で生命の真実(生命の全体)を悟り、仏の境地を得た(注1)と言われています。以下は少し専門的な話になります。ブッダの悟りに至るための修行法の一つに禅定波羅蜜(注2)があります。簡単に言えば瞑想によって悟りの境地に至る修行法です。
瞑想は、実は誰人も実行している
瞑想は日常という現実世界から離れ、非日常を体験することです。現実を離れ、自分を客観する世界に入ることです。つまり、一人静かに自分を振り返ったり、内省したり、自然の中を歩きながら、自分を見つめたりすることや日記や記録をつけたりすることも立派な瞑想です。瞑想は特別なことではなく、人間の営みの一つであり、自らを成長させる、かけがえのないものなのです。自分を省みることや反省が自分を高めることにつながるのは、想像力による自己客観視のたまものです。これをメタ認知、鳥瞰的見方という人もいます。しかし、心の病を治し、真の健康を得るには、本格的な瞑想が必要になります。ここでは、その本格的な瞑想について述べてゆきます。
(注1)仏の境地を得た…仏とは宇宙の真理を悟る智慧を体得した人のことを指した言葉です。仏性(ぶっしょう)は宇宙生命の智慧や慈悲を含んだ不思議な法を指しています。仏の境地という場合、すべての生命的存在に内在する不思議な智慧と慈悲の法を悟り、それに基づいて生きている人という意味になります。具体的にはブッダなどの聖人を指します。聖人とは、生命の永遠性と無量の智慧を直感し、その智慧の力で、多くの人々を実際に救済した人のことです。仏教史上、釈尊(正法時代のブッダ)のほか、天台、最澄(像法時代のブッダ、釈尊滅後1000年から2000年の期間を像法という釈尊の教法が像「かたち」になる時代)、日蓮(末法のブッダ、釈尊滅後2000年以降未来永遠、釈尊の教法が隠没「おんもつ」する時代)とされています。世界に目を転じてみると、思想・哲学は異なりますが、孔子、イエス・キリスト、ソクラテスも自らの思想・哲学で多くの人々の精神を高め、救済した人とされ、聖人と言われています。
(注2)禅定波羅蜜…仏の境涯を得るための修行法の六波羅蜜の一つ。波羅蜜とは、今の自分が悟りの境地に至るための修行法という意味です
日本の瞑想は 鎌倉時代の道元の禅が源流
ブッダ以降の仏道修行者の一人、インドの達磨大師が独自の禅を考案し、中国の禅修行者を経て、日本に伝わったとされています。鎌倉時代に栄西や道元が禅を布教しました。道元は釈尊の言葉から離れ、独自に修行の世界に入ることを目指しました。それが「不立文字・教外別伝」です。簡単に言えばブッダの言葉の外にある、以心伝心のようなものと解釈し、独自に悟りの世界に入る修行をしました。しかし、指標なき瞑想が、どこに向かうのか、先人の言葉や正しいイメージのない瞑想は闇の中を彷徨ことになりかねません。道元は死ぬ直前、自らの居場所を「妙法蓮華経庵」と名付け、法華経の「如来神力品」の一節を毎日読誦していたと言われています。彼は、最後には釈尊の言葉・法華経に帰ったのです。心の不調者や病んでいる人は、迷いの世界にいます。そんな人が禅の瞑想をやればどうなるのか、想像しただけで結果は見えています。瞑想は意識から入ります。その意識が迷いの状態にあり、指標がなければ、漂流するしかありません。神経を遣った分、迷いと苦しみは増幅されるでしょう。私も、大学時代にギャンブル依存がひどかったとき、座禅を試したことがありますが、効果を感じることはできませんでした。指標なき瞑想をすることで、今の迷いの自分から離れられるかどうか疑問です。魔界(生命の秩序を壊したり、破壊したりする働きが起きる世界)に入る危険性があると日蓮(ブッダの一人)は警告しました。瞑想には正しい師や指標が必要なのです。
マイドフルネスの目指す瞑想法
マインドフルネス考案者のカバットジン氏は、日本で道元の禅を修行し、それを基にして、独自の瞑想法を開発しました。しかし彼のマインドフルネスは禅とは別のものだと私は思います。彼はイメージや言葉から生命の全体の秩序や調和に迫っています。それが「呼吸瞑想」「歩行瞑想」「今やっていることに対することに意識を集中するという瞑想です」。つまり、「今、生きている瞬間に集中する」という簡単なものです。簡単ですが、私たちは、今という瞬間に、なかなか集中できません。雑念が雲のように湧くからです。過去の記憶から流れてくるような想念に流され、今を過去の記憶の反応で生きているからです。結果、今を生きることができていません。集中力を高めるもっともよい方法が呼吸瞑想です。また身体を観察する「ボディスキャン」です。彼が考案したボディスキャンで部分と全体のつながりを感じてゆくことができます。そうすることでストレスを低減することもできます。彼の主著「マインドフルネスストレス低減法」は、それらの内容を詳述しています。彼の書は世界に広がり、多くの病める人のストレスを実際に低減したと言われています。本当にマインドフルネスを実践したい方は、彼の書「マインドフルネスストレス低減法」を読むことを勧めます。私も彼の書は何度も精読しました。
心身を健康にする 芝蘭の瞑想法
真の瞑想は想像力と思考力を遣って、生命の深層に接近する心の修行です。想像力と思考でブッダの言葉を指標にして深層に入り、本来のありのままの生命の振動にリズムを合わせ、私たちの自己と宇宙的自己が冥合(みょうごう)することが真の瞑想です。そのとき、私たちの意識という一部は、生命全体を直感します。ニコラ・テスラがいう、「宇宙を受信する」ということであり、振動数が重なることと言えます。
「想像力は知識より大事である。知識には限界があるが、想像力は無限であり 宇宙をも包みこむ」 とアインシュタインは言いました。宇宙の物理的真理の一端を覚知された彼の言葉は意味深長です。以下に述べる事柄は、感覚では理解できません。知識を指標として想像力を遣えば感じられる世界です。芝蘭の室の瞑想は、1、「身体瞑想」2、知恩瞑想 3、「地球自然瞑想」4、「詩朗読瞑想」の四つを実践し、心の状態にあったものを使います。前提としての生命の働きを理解する心理学習は必須です。特に心の病の重篤な人は、「詩朗読瞑想」を中心に行います。
心の病の四相…神経症系、パーソナリティ系、うつ系、統合失調症系
心の病を感覚受信、反応、エネルギーの量という視点から、私は四相に分類しています。1、神経症傾向(強迫性、パニック障害、恐怖症、対人不安、トラウマ、解離など)2、パーソナリティー系。 3、うつ・躁うつ系。 4、統合失調症スペクトラム系。神経症系はエネルギー量を多く持っているので、正しい心理学習で自らを知ることで、比較的早く改善可能です。ただし、トラウマの強度が強い解離性に関しては、特別なかかわりが必要になります。パーソナリティ系は、エネルギーはありますが、波が激しく自己コントロール不全に陥りやすく苦しみます。幼少期の愛着の問題が複雑に絡んでいるため、認知と感情の偏りが大きくなっています。その調節には関係者の粘り強い支援と心理学習が必要になります。うつ系はエネルギーが低下していますので、心身の調節をし、エネルギーの補充が何よりも一番です。エネルギー低下がひどく、生きる意欲が著しく減少しているときは、励ましたり、責めるような言動のかかわりをすると、自殺(苦をもたらす対象を自ら攻撃して、対象を消滅させること。対象の消滅をもたらす心身も消えます。自殺の深層因は瞋恚・しんい(自他ともの生命を破壊する強い攻撃性)による苦しみですから、それを解けば解決に至ります)につながったりしますので、細心の配慮が必要です。休養と軽い運動、気分転換や旅行や趣味を優先します。生活習慣リズムの改善が必須です。エネルギーが出てきたら、心理学習や身体・地球瞑想、詩朗読瞑想を行います。対応を誤ると遷延(せんえん)し長期間、病むことになります。統合失調症系は、深い深層から起きる観念が現実化し意識を支配しているので難治とされていますが、改善可能です。かつてアメリカの精神科医サリバンは統合失調症入院患者をほぼ改善させたとの報告も残っています。つまり統合失調症も対処によっては改善できることを教えてくれています。心理学習と生命の深い深層の流れの転換が必要になります。心理学習、身体瞑想、地球瞑想を含め、詩朗読瞑想が最も効果的です。
〇筆者の生命哲学研究歴… 広島大学総合科学部在学中から、哲学、文学、思想、日本人の行動様式理論、生と死の宗教学、心理学、仏法生命哲学を研究してきました。心理学と仏法生命哲学研究歴は50年を超え、ここ10年は量子力学、身体科学と仏法生命科学の関係性を重点的に研究しています。学びの旅は今も続いています。
質問 最近、大学の後輩が亡くなりました。悲しくて、夜も眠れません。彼はどうなったのでしょうか? どこへ行ったのでしょうか? 安らかに眠っているのでしょうか? 何かしらヒントをいただければありがたいです。
回答 この問いに正解を出せる人間はいません。なぜなら、今いる人たちは、みんな死んでいないからです。ですから、この問いに対する回答は、すべて仮説であり、推測になります。ここでは二コラ・テスラ(注1)の光振動理論とブッダ(注2)の生命科学理論から考察した私なりの仮説を述べてみます。
(注1)ニコラ・テスラ…アインシュタインと並び称される20世紀最大の物理学者、交流電圧を発見するなど200以上の発見をし、人類の福祉に貢献した。 (注2)ブッダ…仏教の開祖釈迦・釈尊のこと。詳しくは下欄に詳述。
死は、生ある人間にとっては、最も大事な問題です。なぜなら、生まれたものは必ず死ぬのが生命の法則(注3)だからです。死は生きている人間にとって最大の恐怖を与えます。自分が無くなる、自分の持っているものがすべてなくなる…体、地位、名声、財産、能力もすべて失くし、周囲の家族や愛する人たちとも別れなければなりません。人生もこの世界も不確実ですが、死だけは確実で、億万長者も最高権力者も凡人も必ず死にます。死は誰人にも平等にやってくる生命の法則です。差異と差別の現実から見れば、信じられないことですが、今生きている人の生命も本質部分では平等です。この真実をニコラ・テスラやブッダは直観していました。
一代で中国を統一し、権力を恣にし、この世のすべての人間やものを自由に支配できると思っていた秦の始皇帝は、「不死の薬」を賢者に探すように命じたという逸話が遺されています。アメリカでは、死後に生き還ることを願って、自分を冷凍保存にしている人もいると聞きます。いずれも生に対する愛着の強さを物語っています。
死ぬことは人間にとって最大の苦しみであり、一大事なのです。ですから、古来、宗教、哲学、思想、科学が、死について思索してきました。物質世界のことと違って見えない心の世界のことであるため、科学の力でも及びません。そのため、昔から今日にいたるまで、あらゆる仮説がまことしやかに展開されてきました。その最たるものが宗教です。
キリスト教では、死後、神の裁きを受け、魂は天国や地獄に行くという考え方を示します。全ては神が死後を決めるという思想です。人間を含めたこの世界を創ったのは神ですから、生も神の創造であり、死も神の裁断ということになります。イスラム教では、死は終わりではなく、来世へ向かう通過点と考えているようです。死という最後の日に審判を受け、善行を積んだものは、天国へ、悪業を積んだものは地獄へ、アッラーが審判します。一般科学は、物質主義ですから、死ねば物質がなくなるように、すべてなくなるという考えです。仏教は宗派によっていろいろな考えがありますが、生命は断絶するのではなく、基本的には続くという考えです。日本人の死生観は、この仏教の考え方が伝統的に受け入れられているようです。
果たして死後の生命はどうなるのでしょうか? 死とは何でしょうか?生まれる前はどこにいたのでしょうか?生れたのは偶然なのでしょうか、それとも、 生れるべきして生れたのでしょうか?この問いは、生命とは何かという難問に還ってきます。生命の真実の解明なしに、生まれる前の生命、そして死後の生命の解明もできません。私たちの生命とは一体、何なのでしょうか。
ニコラ・テスラは記者のインタビューに次のように答えたと言われています。「存在とは、光の無限の形象の表現です。なぜならエネルギーは存在より古いからです。そしてエネルギーによって、すべて生命は織りなされたのです。これまで存在したあらゆる人間は死ぬことはありませんでした。なぜならエネルギーは永遠だからです。神とはエネルギーのことです。神とは意識を持たない生き産み出し続ける力です。この存在の世界において、あるのは、唯一、一つの状態から別の状態に移ることだけです」
一方、ブッダはあらゆる生命は、無有生死(生と死は有ることは無い)と説きます。生もなく死もない、生命は縁によって顕在し、死という縁で空(注4)のかたちに変り、潜在すると悟りました。つまり生命は無始無終であり、始めもなければ終わりもない、あるのは今の生命が続くだけであると説きます。ブッダとテスラは同じ世界を見ていたようです。仏法生命論は、生命は二つのかたちをとりながら存在し続けると説きます。生命は有という顕在のかたちをとり、一方で無という死のかたちで潜在すると説きます。例えていえば、夜になって寝ます。次の日の朝に起きます。寝る前の自分を生のかたちとしての存在と考えます。眠ったときを死のかたちで存在していると考えます。朝起きた時を次の生のかたちとして新たに存在しと考えます。寝る前も自分、眠っているときも自分、次の日起きた時も同じ自分、自分と言う我は一貫し連続しています。この我の流れをエネルギーと考えるなら、テスラの考え方と一致します。
この我は空の状態で存在すると仏法は論じます。自分の我は生まれ変わって、過去の偉人や生物になるわけではありません。自分という我は、あくまで自分で一貫しています。今、生きているときの行為の総体が記憶化され、次の行為につながるように、今世の生き方の総体が心の深い部分の蔵(注5あらや識)に空の状態で貯蔵され、自分に適した縁を選び出し、顕在化すると説きます。それを因果応報とも言います。今の行為(因)が一つの行動を起こし(果)、幸不幸の報いを得るのが応報ということです。人の目は欺けても自分の心は厳然と事実を記憶し、その善悪の総体が、次の生のかたちを決めるとブッダは説きました。エネルギーはかたちを変えますが、不変とテスラが言ったことと同じことを指しています。
ブッダは過去・現在・未来という三世の生命を悟ったと言われています。ブッダの生命観、生と死は不二であり、生命は無始無終であり、今の我が姿かたちを変えて因果の総体( 業=カルマ)で連続すると悟りました。つまり、人が死んだら生前の行為の総体(行為、言葉、心で思ったこと)…善と悪そして無記(純粋な知識)という業が意識下に「空」のかたちで潜在してゆきます。その業にふさわしい縁を選んで、阿頼耶識に蓄積されているものが種子が発芽するように、新たな生命のかたちになり、生まれると説きます。例えば生前、人らしい生き方…人としての戒を守り、敬虔な心を持ち、四恩(親の恩、社会の恩、師の恩、一切の生物の恩)を感じ、それに報いる生き方をするなど)をしていれば人に生れると言います。動物のような弱肉強食の生き方をしていれば動物(犬・昆虫・鳥など)のかたちに生れるとブッダは説いています。全ては自分の行為の結果であり、誰のせいでもありません。これが自業自得の本当の意味です。つまり、死んでも生きているときの自分という我は、姿形を変えて、心法(注6)(色法=肉体、心法=心、仏法生命論は色心不二と説きます)として存在し、永遠に続くとの理論です。
注2 ブッタ・聖人…インドに約2500年に誕生したブッダを一般的には指します。しかし法華経の正統継承者の中では、三世の生命、未来の宇宙・自然・社会・万物を悟った人を聖人と呼び、この地球上では四人いるとされています。インドのブッダ、中国の天台智顗、日本の最澄と日蓮の四人です。この四名の聖人は、いずれも未来を予言し、それを的中させ、その証拠をもとに聖人と呼ばれるようになりました。また、それに近い人で竜樹・天親菩薩がいます。彼らは人間生命の深層を探り、空観や唯識思想や死後の世界を究明したと言われています。聖人と呼ばれる人たちは、自らの私利私欲と闘い、それを克服昇華させ、人々の苦しみを抜き、人の生き方を高め、現実的に人々を救済し、慈悲行を生涯貫いた人であり、人として最高の生き方の見本を証明した人たちです。「人間は素晴らしい存在である、その素晴らしさにめざめなさい」と生涯、忍耐強く対話を続けたそうです。あくまでも人間に始まり人間で終わった人たちです。同じ人間だら、人間として共感でき、心底尊敬でき、私のあこがれの存在です。
注3生命の不思議な法則…宇宙のすべての存在は生と死を繰り返しています。地上の生物は細胞で構成されていますが、その細胞は生まれて変化成長し、やがて老化し役割を終えます。人間も同じです。細胞でできているからです。この法則を釈迦は生住異滅(じょうじゅういめつ)、生滅の法(生死の二法)と悟りました。
注4 空…竜樹菩薩の中心思想の一つ。存在するものを「有」存在しないものを「無」というとらえ方を超えた生命のとらえ方。分析できないが確かに存在するあり方。例えば電波を例に考えるなら、ここには無数の電波が存在していますが、混線せず存在しています。見えませんが、無数の電波が「空」のかたちで潜在しています。チャンネルを合わせると、一つの電波が受信され、目に見えるかたちをとります。つまり、「空」のかたちで潜在しているものが、「縁・境」によって生起し有のかたちになる。「空」は有無の二つの在り方をとる生命現象なのです。
注5 阿頼耶識 唯識思想では意識の下に、第七識として末那識(自我執着意識)、その下に第八識、阿頼耶識を説きました。七識、八識は意識できない世界に潜在しているが確かに存在し、意識に影響を与えています。脳に記憶化されたものと考えると理解しやすいかもしれません。天台智顗は八識下に根本浄識としての九識を覚知されました。それを法性(仏性)といい、あらゆる万物を創造する慈悲と知慧の生命でありブッダの妙法蓮華経(注7)と同義であると論じています。
注6… 心法、仏法生命論の重要概念の一つ。色法=肉体の働き、心法=心の働き、仏法生命論は色心不二と説きます。この色心不二が生命の存在の真実の姿とブッダは悟りました。般若波羅蜜教の中心思想は「色即是空」です。色法は、これ空との教えです。心法は、空の状態で存在し、縁によって顕在し見えるかたち、色法として働きます。色心不二理論は、妙法蓮華経方便品で説かれた重要理論です。
注7 妙法蓮華経、略して法華経といいます。インド応誕のブッダは、菩提樹下で生命の真実相を悟ったと言われています。その悟りの内容を修行面で仏教と言い、法理面を仏法と言います。悟りの内容は深遠であったため、当時の民衆の生命状態や能力に応じて種々のたとえや方便を使って教えを説いたとされています。例えば念仏の南無阿弥陀仏や大日如来の教えや禅や般若波羅蜜経など、40年にわたって八万宝蔵とも言われる膨大な教えを展開しましたが、いずれも当時の民衆の能力や理解度を考えて、生命の一部分を説いたとブッダは言われました。部分ですから、それらに執着しては、正しい生命観を持てないと戒めましたが、現存する日本の多くの仏教は、部分に囚われています。それゆえ、真実の法に到ることができていないと聖人は語っています。
ブッダは最後の八年で、真実の教え、生命の全体像を説きます。それが妙法蓮華経(サ・ダルマ・プンダリキャ・ソタランのインド、サンスクリット語の漢訳)で、略して法華経と呼ばれています。妙法蓮華経とは、宇宙を含めたすべての存在は不可思議な因果俱時の法に則って存在しているというありのままの姿を言葉として表現したものです。この不思議な法を言葉で名付けた方が聖人であり、その語音律(リズム・振動)が妙法蓮華経です。実態は言葉を超えて存在していますが、人間には比喩の言葉でしか表現できないので、聖人は言葉として表現したと言います。そして比喩即真理(比喩はそのまま真理を表す)と不可思議境の世界を説かれました。この妙法蓮華経の振動は、今この瞬間にも私たちの生命そのものとして存在していると言います。当時、書物はありませんので口承で真意を汲んだ弟子たちによって編集され、28品(章)に分類されました。生物の業を説いた比喩品は第三であり、永遠の生命を説いているのは如来寿量品第十六になります。
如来とは、阿弥陀如来や薬師如来など仏(人的側面)と訳されることもありますが、真実の意味は、今の生命の深層から湧き出る私たちの本来的な生命の振動であり法のことです。つまり、今の一瞬の生命は不可思議であり、どこからともなく湧き起こり、私たちの生を支えていますが、私たちは意識できませんし、実感もできません。過去の記憶の総体で自動的な働きの感受である意識で生きているからです。
如来の意味は、瞬間に発動する生命のもつ慈悲と智慧の律動であり振動リズムです。これを光の振動ととらえたのがニコラ・テスラです。生命は永遠に今を振動しています。永遠と言う言葉は時間の変化を表す言葉であり、アインシュタインは、時間はない、変化があるだけと言いました。実際の生命は常に今しかないのです。アインシュタインもニコラ・テスラも、こうした世界の一部を覚知していたと言われています。だからあれほどの発見ができたとも言えます。この今の生命の真実の在り方、如如としてくる生命、つまり妙法蓮華経如来にナム(ナムは梵語、漢語で帰命…リズムを冥合させること)して生きることこそ真の幸福に至る道(仏道)と聖人は教えています。私は今日まで、50年近く諸般の哲学や文学、科学、心理学、仏法生命哲学を研究してきました。研鑽の旅は今も続いています。あなたもぜひ、思索研究され、生命の真実に接近されてみてください。
しらんの便り…不登校・引きこもり・心の不調からよみがえる本 (来春出版予定)第五章より抜粋
〇筆者は、広島大学総合科学部在学中から、哲学、文学、思想、生と死の宗教学、心理学、仏法生命哲学を研究してきました。心理学と仏法生命哲学研究歴は50年を超え、ここ10年は量子力学、身体科学と仏法生命科学の関係性を重点的に研究しています。学びの旅は今も続いています。
(質問)自分が嫌いです。自分の顔も嫌いです。生きることが辛いです。どうすればいいですか。
回答
自分が嫌いなぐらい辛いことはありません。生きているのは自分であり、自分そのものですから…。その自分が嫌い、それは生きることが嫌いということと同じぐらい辛く苦しいことです。
よくよく考えてみると、自分が嫌いと感じているのは、あなたの意識が感知した世界のことです。その意識の向いている対象とは一体何なのでしょうか。意識はあなたの全体を感知できません。意識が感知できるのは、あなたのごく一部だけです。まず、そのことを知らなければいけません。
あなたが嫌いと感じているのは、あなたのどの部分のことなのでしょうか。顔でしょうか.体形でしょうか、暗いなどといわれる性格面でしょうか、うまく人と話せない自分でしょうか、嘘をつき内心を隠す自分でしょうか、成績が良くない自分でしょうか、運動能力の低い自分でしょうか、家庭に問題がある自分でしょうか、貧しい家に住む自分でしょうか…例を挙げればきりがありません。
しかし、これらは、あなたの属性の一部分にすぎません。あなたの全体ではありません。部分は全体ではないことを知らなければなりません。顔がよいとかよくないとかは、あなたの属性の一部分にしか過ぎないのです。一部分で全体を決めてしまっていることに気づかなければいけません。人間の真の価値は、部分の属性で決まるものではなく、全体で決まります。例えば、一人の人の苦しみもわからない国王より、貧しく地位もないけど、隣人の一人を救う人のほうが人間としての価値は高く、偉い人と聖人(ブッダ)言いました。
顔という一属性を例に挙げて考えてみます。確かに顔は人間にとって大事な部位です。顔の表情を見れば、その人の心情を読むことができますし、生き方そのものが顔に現れていると言われます。人相診断というものがあるほどですから。確かによい顔は好感をもたらします。そのよい顔とは一体どんな顔をいうのでしょうか。マスコミなので作られた俳優のような顔をよい顔というのでしょうか。顔は人間の中心的な部位ですが、人間全体ではありません。あくまで一部です。つまり顔がよいというのはその人の一部を評価されたにすぎません、その人そのものが好(よ)いわけではありません。
顔に対する意識は、今のあなたが感じたものにすぎません。そしてその顔を評価しているのは誰でしょう。あなたですか、それとも周囲の人ですか。よく考えてみてください。よく考えてみると、その評価は、社会の人が作った評価を周囲の人も信じ、その評価をあなたが取り入れているに過ぎないことがわかります。わかりやすくいえば、顔のよしあしを決めているのは、その時代の価値基準というものさしです。
例を挙げれば、女性の外見の美の基準は時代とともに変わっています。平安時代は、ふくよかな一重瞼の切れ長で、髪が美しい女性が美人とされました。日本は長く和服文化で、和服を着ていましたので、欧米の服装が入ってくるまでは、和服が似合う人が美人でした。現代は、欧米の影響もあり、外見のスマートさや化粧や装飾品、髪型など顔の持つ本来の素面(すめん・素材)のよさより、装飾され加工された美を求める傾向にあります。その最たるものが整形、スマートなスタイルです。しかし、いかに外見を飾っても心根(こころね)の美しさは装飾や加工では作れません。心根のよさは生き方が反映されるからです。女性に対する美意識も時代とともに変わっていきます。変わらないのは心根の美しさです。
「単純さは究極の洗練である」とレオナルド・ダビンチは言いました。真の美は調和であり、整った秩序を持ち、単純です。体と心の調和されたものこそ真の美です。その美は時間の変化の中でも輝きます。心に美しさを持つ人は、年齢とともに美しさを発揮してゆけます。体は時間とともに衰えてゆきますが、心は死ぬまで成長してゆくものだからです。真実は常に単純です。
顔という一部分で人間全体を決めつけることの愚かさがわかったと思います。内面的な性格、能力、優しさ、思いやる心の深さ、そうしたものを持つ人の美しさは顔の美しさをはるかに凌駕します。
どんな美しい顔立ちであっても心の成長のない顔は飽きます。また風化してゆきますが、心を磨いた顔は日々輝いていきます。自分の一部を見て、他者と比較し、自分を劣ったもの、だめなものと決めつけることから、自分が嫌だという感情が生まれます。それは、あなた全体のもつ可能性に対する冒涜です。あなたには、もっもっといろいろなものがあるはずです。例え、世の中の基準値から見て、顔がよくなくとも、顔が嫌いでも、心根が好(よ)ければ、また他人があなたの心根をほめれば、あなたはあなたの心根が好きになるはずです。好い所が増えれば増えるほど、自分が自分を好きになれます。
あなたの体を目を閉じて想像してみてください。体には、皮膚、筋肉、骨、脳、神経、口、鼻、耳、目、食道、胃、腸、肝臓、心臓、肺、ホルモン、血液…など無数の部分(パーツ)があります。顔は皮膚の一部です。あなた全体の100分の一以下にすぎません。百分の一が劣っているからといって、全体の100を嫌うという愚かな考えに陥っています。
今の自分をありのまま受け入れ、あなた自身の全体に生きることです。あなたの全体を知ることです。そこから全ての変化が起きます。大事なことは、他人の言葉ではなく、自分が自分に投げかける言葉なのです。
もう一度繰り返します。人間の属性はたくさんあります。その属性を比較する基準も、人が作ったものさしに過ぎません。容姿以外にも、頭の良さ、学歴、性格、富、人気、家柄など、その人の持つ属性はたくさんあり、評価基準も無数にあります。評価基準は社会や人が作ったものです。容姿が人より悪くとも、他の面で人より秀でていれば、人も認め、自分も自分の容姿の悪さを受け入れることができるようになります。善いところも悪いところも、容姿の悪さも、すべて自分の一部です。
今の自分をすべて受け入れることです。あなたには気づかないあなたの良さがまだたくさんあなたの中に潜在しています。意識の方向を変えてみることです。違った自分が見えてくるはずです。人と比べることをやめ、今日の自分と明日の自分を比べる生き方に変え、自分のよさを開発してゆくことです。人と比べても本当の成長はありませんが、今の自分と未来の自分を比べ、足りないところを努力し補っていけば確実に成長してゆきます。そして人からも認められるようになっていきます。やがて自分を認めることができるようになります。その積み重ねの努力の継続が、自分は自分でよいと思える自分にしてくれるでしょう。
今の自分を全部受け入れ、多くの未知の可能性の発掘のため、常に学び向上し、心を磨いていけば、自分の欠点なんか、気にならない日がくるでしょう。あなたには、それだけ素晴らしい力が眠っているからです。その開発も、今の自分を丸ごと受け入れることから始まります。いつの日か、自分が好きになる日が必ず来ます。私もそうでした。
芝蘭の便り「ひきこもり・不登校・心の不調からよみがえる」(来週出版予定) 第五章の3 質問に答えるより
〇筆者は、広島大学総合科学部在学中から、哲学、文学、思想、生と死の宗教学、心理学、仏法生命哲学を研究してきました。心理学と仏法生命哲学研究歴は50年を超え、ここ10年は量子力学、身体科学と仏法生命科学の関係性を重点的に研究しています。学びの旅は今も続いています。
安心と喜びの慈悲のリズムが、私たちの心の奥底に流れています。しかし、私たちはそれを感知することがなかなかできません。
石、草木、花、川、海、山、生物、大地、空、人間、地球、月、太陽、星、銀河など、あらゆる存在は、原子でできており、振動しリズムを奏でています。これは、量子物理学の知見であり、生命の不思議世界に接近しつつあると言われています。見えない生命のリズムについては既に、2600年前ごろにインドのブッダによって瞑想直観され、その真意を信解(しんげ)した正師たち(注1)に求道、研鑽され、深化を遂げてきました。生命はリズムを奏で、一瞬も止まることなく流れゆく存在であると…。
(注1) 釈迦滅後1000年の間に、釈迦(ブッダ)の正法を継承した24人のこと。「空や縁起」などの深遠な生命理論を展開した。その関係性理論は量子力学の知見と近似しています。(注1)終
宇宙のあらゆる存在は、石も植物も動物も原子で構成され独自の周波数(注2)を持ち、それぞれが固有の波動を出しています。喜びの波動もあれば、地の底に沈む苦しみの周波数もあります。動物も生物も、そのかたちに応じた周波数を出していると量子物理学は語ります。人は通常、平穏な周波数を奏で、その波動を出しています。それが人間のリズムの基本であるとブッダは語りました。
(注2) 周波数(ここではリズムを同じ意味で使っている)…一秒間に振動する数、単位はHz(ヘルツ)、私たちの脳波は通常、シーター波(4~8Hz、まどろみ時)、アルファ波(8~13Hz、リラックス時)、ベーター波(13~30Hz、活動時)、ガンマ波(30Hz以上、緊張、興奮時)の周波数が中心になっていると言われています。癒しの周波数は、528Hzと言われ、リラックス効果やDNAの修復が期待される奇跡の周波数という学者もいます。また432Hzは、自然の周波数や宇宙の響きと呼ばれ、心を落ち着かせ、感情を穏やかにする効果があるという学者もいます。人間が耳で聞くことができる周波数の範囲は、20~2万Hzと言われ、出せる音は80~1100Hzと言われています。ちなみに蝙蝠は10万Hzの音が聞き分けられる音の超能力動物です。波動は振動を伝えるエネルギーです。周波数が高いと波動も大きくなります。この宇宙で最も周波数が高い存在は、現代量子物理学の発見によると光とされ、400兆Hz(赤外線)から700~800兆Hz(紫外線)と言われ、思考や想像を超えた神がかり的な奇跡の周波数です。私たちは光で生きています。また微細な光を体から出しています。それをバイオフォトンと学者は名付けています。生命は不思議です。こうした不思議な生命現象をブッダは「サ・ダルマ」(妙法…漢訳)と名付けました。ブッダのいう法とは、人間の感覚では感知できませんが、確かに存在し変化を生み出す働きを言います。科学は、あるものごとや現象を理論として仮説し、それを実験・実行し、その仮説の正しさが証明され、現実に適用して効果を発するものと定義できます。ブッダの説いた仏法(生命科学理論)は、それを正しく実行すれば、慈悲と智慧が生命に流れることによって結果が出てきます。例をあげれば苦しんでいる人がブッダの仏法を正しく実践した結果、苦しみから解放される事実が百発百中ということです。それを科学と言います。仏法は正しい理論に裏打ちされた科学です。量子力学がそれを証明しつつあると言われています。(注2)終
生命の発するリズムは、私たちの五感では感受することが難しいのですが、実際は光の波のように四方八方に伝播されています。よい光や香りを放つ人もいれば、怒気や嫌悪波を出す人もいます。目に見えない波ですが、周囲に波動として広がります。五感で感じられる共鳴と、感じられないものがあります。例えば、お腹の中の赤ちゃんが、母親の言葉を聞き、その感情の振動を受信しているようなものです。善も悪も共感し感染します。きれいな夕焼け空や朝焼けの放つ波動、穏やかな言葉の持つリズム、癒される自然の波動、心惹かれるリズム、嫌な不協和音の攪乱波など、すべての生命的存在は、生命の境界(注3)に応じたリズムを奏でているとブッダは語ります。
(注3) 生命の境界…天台智顗・てんだいちぎ(538年~597年、天台大師のこと。隋の皇帝も帰依し国師となった人)によると、ブッダの究極の法を多面的にとらえ「一念三千論」の生命科学理論を提唱し、像法時代の仏と言われています。すべての人間の生命に等しく十境界は内在し、縁(対象)によって現れると説きます。生命の十境界(1、地獄界「束縛された不自由な苦しみと、苦をもたらすものをはねかえせない恨み憎しみ怒りと破壊の渦巻く生命」、2、餓鬼界・がきかい『貪・むさぼり・飢渇・きかつ、執着、自らの欲望の炎に焼かれ、求めても得られない渇し、もだえ苦しむ生命」、3、畜生界・ちくしょうかい「癡・おろか、威張る、愧・はじない心、弱肉強食、強いものに巻かれたり、弱いものを傷つけたり、強いものに殺されたり、弱いものを殺したりする攻撃と恐怖の保身の生命」。以上の三つを三悪道・さんあくどうと名付け、人間の苦しみの根本因としています。現代の世界の各地の戦争や紛争をはじめとした惨劇、社会的犯罪などの不幸な現象はこの三悪道から起きるとブッダは洞察しました。 4、修羅界・しゅらかい「傲慢・ごうまん、嫉妬・しっと、人より優れようとしたり劣等に苦しんだりする戦々恐々・きょうきょうとした心が揺れ動く不安定な生命」、現代の競争社会…学歴、成果主義社会の根底にある生命は修羅界です。こうした競争社会に疲れ、家に回避しているのが、不登校・ひきこもりの要因の一つになっています。5、人界・にんかい『平穏・安定した思いやりに満ちた平和な本来の人間の生命状態」6、天界「満足・充足・喜びの生命」…人間はこの六つの世界を縁・えん(対象)によって巡る、つまり六道輪廻・ろくどうりんねしているブッダは説きます。この六つの境界は環境に左右されやすい生命状態で安定できません。7、声聞界・しょうもんかい(正しい知識を学び自分のものにする向学の心、向上する生命)、8、縁覚界・えんがくかい(見えない世界や法則を悟る智慧の生命)、9、菩薩界・ぼさつかい(自他ともの生命を高め慈・いつくしむ慈悲と智慧の振る舞い、自己中心性を克服し生命を大きく飛躍させる崇高な生命)、10、仏界・ぶっかい(生命の真実を悟り永遠性を覚知できる智慧の生命)…以上の四つの境界は、生命が安定し、エネルギーに満ち、環境や他者を価値的にリードすることができると言われています)。天台の境界論は、のちの仏教界に大きな影響を与えました。すべての命(衆生・しゅじょう、人間)は十境界をもち、それらは「空・くう」の状態で存在し、縁・えん(対象)によって起こるという関係性理論を展開しました。生命の十境界は固定化されたものではなく、縁(対象)によって起こり、変化してゆきます。どの境界がよく出るのかによって、その人の人間性の品位・ひんい、振る舞いが決まります。意識を磨き修行すること(意志、決意、誓いをもち行動すること)で境界のレベルを上げることで人格を高め、品・ひんのある人(孔子のいう君子)になっていくと論じています。ブッダは修行によって、仏界(宇宙大の尽きることのない智慧と慈悲と創造性、生命力などを含む無上の宝珠の世界)の境涯の定業化・じょうごうか(習慣化)を弟子たちに教えました。現在の量子力学は、縁起という関係性理論を証明していると言われています。(注3)終
「あの人とは、生理的に合わない」は、その一つの例であり、その人の発するリズムを心身が受け入れられない反応です。しかし、それは固定化されたものではなく、こちらの心の境界が上がれば、生理的な回避反応も、受け入れられるようになり、その人に合わせることができるようになります。
また不登校・ひきこもる人の中には、人々の発する不愉快な波を避けるために安全空間に回避している人も少なくありません。他者や社会の持つ嫌な波動を受け入れ、適応できるようになるためには、こちらの心の世界を広げるしかありません。心の境界が低いと周囲の波動に振り回されますが、高くなると、逆に周囲や環境をリードすることができ、価値的に対処できるようなります。
ブッダ・釈尊のような人格の香る人のそばにいると、共感現象により、心が浄化され、人間性の高みに引き上げられていきます。逆に朱に交われば赤くなるとのことわざのように、人間性の低い人のそばにいると、そのリズムに感染し、いつしか人格が低下するようになるかもしれません。人はその境界に応じた周波数を奏で、波を出しています。人の心がわかることは大変な難事です。自分の心がわかっていないと、人の心も分からないからです。多くの人は本心を隠して生きています。心が澄んだ人は、ひとのリズムを直感で感じとり、その人の本質を知ることができ、善き波動と悪しき波動の持ち主を見わけることができるようになります。人を見分ける基準は、その人の私欲私心(松下幸之助の言葉…私欲私心が会社をつぶす)の有無をみればわかります。人格者は清廉潔白であり、誠実で正直です。
意識とは何か、最新の脳科学も、またあらゆる科学をもってしても、意識を正確にとらえることはできていません。しかし、確実に言えることは、今、このように読んだりしていることは意識の働きよるということです。つまり意識は言語道断(言葉では説明できないもの)の世界の振動数の世界なのです。比喩を使うしか表現できません。
光は二つの側面を持っています。それは粒子と波という二面性です。人の意識は、言葉・イメージと気分・情緒という二側面があると考えられます。言葉・イメージは固定化された物質であり粒子といえます。気分情緒は波に譬えられます。人間の意識は情緒・気分というリズムをもっていると推測でき、そこに人の心を読むことの難しさや、周波数の秘密が隠されている可能性があります。
量子力学などで、素粒子の世界や動きから周波数の一部は解析できている部分もありますが、ごく一部であり、ほとんどが未だに闇の中です。あらゆる生物、物体、人間や動物も固有の周波数を出していますが、固定的なものではなく、絶えず変化し、関係性で生起しているのが真相です。関係性で生起しているゆえに、一方が変化すれば他方も変化することになり、固定化できず、観測も分析もできないという不確定性原理(注4)が生れます。その意味では素粒子の究極の世界と意識・生命は似ているといえます。宇宙のすべての生命体は周波数によってかたちができ、その周波数も刻々と変化し生滅を繰り返し、関係性(縁起)で成り立っていると直感したのがブッダです。
(注4)不確定性原理…量子力学の根幹をなす概念の一つ。1927年にハイゼンベルグが提唱しました。簡単に言えば、物質の究極の世界は正確な観測ができず、不確定であるということ。(注4)終
波動を高めるとか運気をあげるとか、周波数を合わせるとかいっても、宇宙、生命の真相がわからないと、どこに周波数を合わせるかさえわかりません。指標なき盲目の方向は危険です。地獄に引き込む周波数や人をだまし、不幸を誘う周波数もあります。心が濁っていると、見る目が曇り、真実が見抜けなくなり、偽物を本物と見てしまいます。結果、不幸な人生をさまようことになります。心を磨き、選択する力、判断力を高め、想像力を広げる意識の錬磨によって健康・幸福のリズムに乗ることができるようになります。
見えない生命のリズムをあつかう、宗教やスピリチュアル系や思想・考え方の怖さはそこにあります。今、問題になっている宗教がそのよい例です。そもそもお金や営利の心がある人や団体には気を付けなくてはいけません。ユーチューブやサイトの情報も要注意です。そもそも閲覧数(利益・名誉になる)が目的のものが多く、閲覧する人の幸福を考えている人は少ないかもしれません。正しい思想の人は、釈尊やその弟子たちのように、真実の探求を第一に誠実に生き、自他の救済に生きています。なぜなら真実の探求と悟りで心が充実しているからです。
生命本来のリズムの解明は宇宙すべての生命現象の解明なくしては分からない難問です。生命の真相を求めて、この地球では有史以来あらゆる聖人、賢人、物理学者、数学者、哲学者、思想家、宗教家が格闘してきました。そして到達した世界を書物や対話などで残してきました。その数は膨大であり、一生かけても探究できないと言われています。最も生命の真実に迫った人たちは四聖人(ソクラテス、孔子、イエス・キリスト、釈尊・ブッダの四人を指す)と一般的に言われています。なかんずく、自らの生命の魔性と闘い、迷いの生命と格闘し悟りを得た人がブッダです。
生命を悟ることは、知的理解では到達できないと言われています。知識は生命の一部しか理解できないからです。釈尊の悟りは直観智であり、生命全体でわかることでした。それは心身全体をかけた実践・修行のなかで生命浄化の果てに到達できた生命の直観体得です。
欲望に染まった生命を浄化することによって、本来の純粋な自己が発するリズムにはじめて冥合が可能になります。本来の自己、つまり宇宙本来の自己のリズムは、万物を創造し育む慈悲の音律であり波であり光であり無分別の一法なのです。慈悲の修行実践者にして初めて到達できる悟りです。欧米世界やイスラム世界では、その存在を神と名付け、人間世界のはるかかなたに祭り上げてしまい、その存在の探求や思考をやめ、崇め信じることを第一義にしてしまったように思えます。
慈悲のリズムに合わせて生きるためには、覚者の通った道に学び、覚者の言葉を師標(注5)にして修行実践するしかありません。言葉では表現できない不可思議な音律がもたらすリズムは覚知であり実践修得しかないからです。そのためには、正しい指標、正しい知識が必要になります。正しい知識とは、生命全体を基本にした上で、部分は部分として把握理解している知識です。逆に不幸を誘う知識は、部分をもって生命全体とする偏った知識です。実践してみて、100%の人が幸福を実感できるものこそ正しい知識の証といえます。正しい言葉は詩的で美しい響きがあります。以下は、私が読んだもので美しい響きを持つものと記憶しているものの一部です。
「論語」、老子の言葉、聖書の一節、万葉集などの短歌、平家物語の冒頭、法華経の寿量品、ニーチェの「ツラツゥストラはかく語りき」、マルクスの「ヘーゲル法哲学批判」、ゲーテの「ファースト」、ペスタロッチ「隠者の夕暮れ」、日蓮の「立正安国論」、ベルグソンの「創造的進化」、西田幾多郎の「善の研究」、アインシュタイン、ニコラ・テスラ、ダビンチ、ソクラテス、アリストテレス、パスカルの名言、宮沢賢治の「雨にも負けず…」や高村光太郎やタゴールやホイットマンなどの詩です。
善き言葉 善き知識・書物、善き人 善き師、よき先生に出会えることこそ 人生最高の宝であり、智慧と福徳の源泉です。それらの存在が縁となって私たちは心の境界を高め、幸福リズムに乗ることができるようになります。
(注5) 覚者の言葉を師標…ブッダ・釈尊が弟子たちに説いた最も大事な指標の一つに「六波羅蜜・ろくはらみつ」(波羅蜜とは、迷いから悟りに至り、宇宙大の生命をくみとり、そのリズムに乗るための六つ項目) と八正道(はっしょうどう)の修行実践があります。それらを正しく実践すれば、あらゆる病は治るとされています。釈尊は医王との別名があり、治せない病気はなかったと言われています。ただし、正法時代に特に効果をもたらす実践法と言われています。釈尊は時代の流れを大集経(だいしつきょう)の中で予言しています。正法(釈尊の死後1000年間、煩悩を克服して悟りを得る最初の500年間…解脱堅固(げだつけんご)、禅や瞑想で悟りを得る後半の500年間…禅定堅固・ぜんじょうけんご)次の1000年を像法時代(最初の500年間は、読経、書写が盛んになる読誦多聞堅固・どくじゅたもんけんご。後半500年は、お寺や仏像などが盛んに作られる多造寺堅固・たぞうじけんご)堅固・けんごとは予言が的中するという意味です。日本をはじめ、仏教国では、不思議なことですが、釈尊の予言の通りになっています。釈尊滅後2000年以降を末法と言います。日本では、平安時代の終わりのころで、闘諍言訟(とうじょうごんしょう…思想宗教上の争いが絶えなく、何が正しいのかわからなくなる時代)末法思想到来などと言われ、暗い世相の時代になりました。釈尊の仏法が効力を失う時代とされ、新たな仏法が日本を中心に興る時代と天台は予言しました。末法は未来永遠に続くとされています。今は末法です。
〇六波羅蜜(ろくはらみつ)
1,「布施波羅蜜」…この実践により、自己の貪欲で人にものを与えず独り占めする心を克服することができます。具体的な実践として、お金を他者に施したり、正しい生き方や知識を人に施したり、心からの安心感を人に与え、人々の恐怖を取り除いたりすることです。これを実践すれば、執着を明らかに見ることができるようになり、依存症を治すことができるようになります。心の境界の「餓鬼界」を善の方向に転換できるようになります。
2,持戒波羅蜜‥悪を止め、善を行うこと。リズム的生命活動を破る行為を、再び人間らしい生命へ回復させる実践。これを実践すれば、反社会的行為を治すことができます。心の境界の畜生界を善の方向に転換できるようになります。
3,忍辱波羅蜜‥忍耐のこと。瞋恚(各種の怒りの煩悩を治す効果がある。) 人間の生命を高め、慈しむ菩薩行には、耐え忍んで他者を守るという努力が必要になります。これを実践すれば、アンガーをマネジメントすることができるようになります。心の境界の地獄界を善の方向に転換できるようにもなります。
4,精進波羅蜜‥喜んで慈悲を行い、いささかも怠けないことです。懈怠(人間完成に向かって努力することを怠る心)をいましめてゆきます。これを実践すれば、社会で、その道の一流になることができます。修羅界を善の方向に活かすことができるようになります。
5,禅定波羅蜜‥静慮ともいい、精神を集中して散乱させないことです。マインドフルネスは、これを重点的に実践しています。これを実践すれば、不安障害など多くの心の病を治すことができ、人間界を強化できるようになります。 6,般若波羅蜜(般若は、智慧の意味)一切の事柄、法理に通達して明瞭ならしめる智慧の獲得を目指します。愚痴(物事の道理に暗く、因果律もわからない心)を治します。これを実践すれば、崩れない幸福郷に至ることができます。
〇八正道・はっしょうどう…1、正見…正しい見解 2、正思惟…思考が正しいこと 3、正語…言葉が正しいこと 4、正業… 行いが正しいこと 5、正命…生活法が正しいこと 6、正精進…修行法の正しいこと 7、正念…観念の正しいこと 8、正定…一切の悪を捨てること 正しいことが大事です。私たちは、何が正しく、何が正しくないのかがわからず迷っているのが現実です。ただ経験からわかることは、正しくないものを信じて行動すれば、行き詰まり、苦しむことになるということです。正しいことは正義とも解釈できます。正しいことはブッダ・覚者の言葉に学ぶしかありません。この宇宙を貫く法(サ・ダルマ・プンダリキャ・ソタラン=妙法蓮華経・みょうほうれんげきょう(漢訳)=仏界)に乗ることとブッダは説いています。宇宙の仏界の周波数のリズムに私たちの個の生命を乗せること(ナム・漢訳で帰命)で、宇宙に満ちている仏界の周波数に私たちの生命が同期(冥合・みょうごう)し、絶対安心境涯に至るとブッダは説きました。
「心が健康になり 喜びの人生を生きる本」から抜粋 (2026年出版予定) 松岡敏勝著
〇筆者は、広島大学総合科学部在学中から、哲学、文学、思想、生と死の宗教学、心理学、仏法生命哲学を研究してきました。心理学と仏法生命哲学研究歴は50年を超え、ここ10年は量子力学、身体科学と仏法生命科学の関係性を重点的に研究しています。学びの旅は今も続いています。
質問
両親はよくけんかをしていました。私が小学校3年生の時、二人は離婚しました。母親と私たち兄弟3人の生活は、経済的に苦しく、母親は、長女の私に厳しくなりました。同級生の恵まれた家庭を見るにつけ、「なぜ、こんな親の元に生まれたのか」と疑問を持ちながら生きています。家のせいなのか、暗いと人によく言われます。金持ちの家に生まれたり、いい親をもつ家に生まれたりするのは、なぜなのでしょうか。その理由が知りたいです。
回答
とても難しい問題ですが、私たち人間にとって大事な本質的な問いになっています。この質問の問いは、前質問「人は死んだらどこへ行くのか」と重複しますが、大事な問題なので、再度、生命哲学視点から述べてみます。
あなたの質問は、「生まれる前の自分はどこにいたのか?」という問いに置き換えられます。また「人間死んだらどこへ行くのか?」という問いにもなり、生命とは何なのかという本質的な問いになっています。私も青春の頃、そうした問いに悩み、ソクラテス、プラトン、キリスト教神学。近世のデカルト、パスカル、ニーチェ、キルケゴール、ショウペンハイアー、カント、ベルグソン、日本の哲学者西田幾大郎の「善の研究」さらに、ユングの無意識心理学、聖書、仏教の唯識思想、生命論と読み漁りました。その中で最も共鳴できたのは、仏教の唯識思想とユングの集合無意識という考え方でした。ここでは簡単に説明させていただきます。
仏教の無意識世界とユングの無意識の世界には共通点があるように思えます。仏教の唯識思想派では、五感(眼、耳、鼻、舌、身)という感覚を意識が判断思考します。意識が六番目の「識」です。ここまでが意識の世界で、その下が無意識層で、七番目に「自我執着意識」があります。今の言葉で言いかえれば、自己愛に近い意識があり、自己への限りない執着があります。これがともすれば正しい生き方の足枷になり、人間に不幸をもたらすことになると言います。その下に、私たちが身体で行動したり、言葉で働きかけたり心で思ったりしたこと全てが8番目の行為の貯蔵庫に納められるというのです。行為の貯蔵庫の識をアラヤ識といいます。このアラヤ識、業・カルマの貯蔵庫は、生きているときも死後も「空」の状態で存在しているといいます。(前述)
個の生命は、自分の業に応じた条件を選び、次の生を始めると説いています。つまり、今生きている行為の全体が、次の生につながるという考え方です。差異は生れる時、始まるのではなく、今世の終わり、つまり死の段階で決まることになります。これが差異を作るカルマの法則です。エネルギー保存の法則に似ています。金持ちとか、社会的な地位がそのまま続くということではなく、行為の内容…善か悪か、つまり他者の生命を慈しみ、育む、守るという善の行いをどのくらいしたのか、また、他の生命を傷つけ、害したり、さげすんだり、馬鹿にしたり、だましたり、自分だけのことしか考えず、他の生命を利用するような生き方をしたのか、「善悪」どちらの生き方が多かったのかが、死の瞬間に、自分が自分を裁く厳粛な時が訪れ(閻魔の裁きとも比喩的に言われている)、次の生のかたち・差異が決まるというのです。
人間に生まれてくるには、やはり人間らしい生き方をしていないと人間には生まれないと言われています。動物的な生き方…本能のまま、弱肉強食の生き方であれば、次にふさわしい生命のかたちは動物かもしれないというのです。自分にふさわしいかたちや場所を選んで次の生の形と場所を自らが選択するという考え方です。来世の生まれたときの差は、つまり今世の自分の生き方が作り決定するとの考え方です。
生命は死によって断絶するものでもなく、何かに生まれ変わるという転生ということでもありません。今日の夜、眠る=死、明日の朝、生まれる=来世。全く自分は連続したものです。見えない、知覚できない七番目と八番目の無意識の世界が続くのです。自己の我は連続して一貫しています。これがカルマの法則です。生命の因果は見えませんが、無意識の中に確実に刻印される厳然たる法則であり、おまけも割引もないと言われています。自分の脳そして深層心に記憶され、消えることなく連続します。それはエネルギーが姿かたちを変えても不変であることと同じです。位置エネルギーが電気エネルギーに姿かたちは変わっても、エネルギーは不変です。同様に、前世の自分と今世の今の自分は姿は違いますが、エネルギー本体の 我(心の法則)は一貫しているのです。これを業(生命の因果)の法則といいます。
社会法、国法、世間法は人をだますことができますが、自らに内在する生命の因果はごまかしがききません。仏教では、こうした見方ができることを正見(ただしくものごとを見る)と言います。不幸の原因は生命を正見できないところにあるとブッタは説きました。この考え方からすると、あなたは人間に生まれてきていますので、前世で人間らしい生き方(戒律=道理、倫理を守る生き方)をしていたからだと思います。親という環境をどう受け取り、どのようにいかしていくかで、生き方も変わり、価値も変わっていきます。
私は六歳で母親を亡くし、兄弟七人、酒乱の父親、養育放任、極貧の中で少年期を生きました。恵まれない環境でも生き方や関わり方一つで大きく開けることを経験から知りました。あなたも、自分の人生を、自分らしく探求され、自らを高める方向に進まれてください。未来は、今の生き方でどのようにも変わっていくからです。運命として決まっているわけではなく、生命は蘇生力(そせいの力。よみがえるエネルギー)を秘め、柔軟であり可変性に富んでいます。ここが生命の持つ可能性のすばらしさです。私の好きなドイツの詩人シラーは詠(よ)みました。「汝(なんじ・あなた)の運命の星は、汝の胸中にあり」 必ず希望の未来は開けます。
「ひきこもり・不登校・心の不調からよみがえる本」(松岡敏勝著・来春出版予定) 第五章より
健康は心身の美しい秩序と調和
健康は美しい秩序であり、調和の美です。心が健康な人は内面から、素敵な輝きを放ちます。健康は絶えず変化し、更新される流れそのものです。私たちの生命は、健康と病の二面を持っていますが、病を健康に変えゆく力も秘めています。その力は、瞑想による振動の受信によって可能になります。
偏りや執着は秩序を乱し、病を招きます。過剰や不足はバランスを崩し、心身を不調にします。生命の本来の秩序を知ることが何よりも大事です。科学を信じて生きている私たちは、部分観に生きています。科学は部分の分析から法則を発見し、私たちに利益をもたらしているからです。分析された対象は真実ですが、物事の全体をとらえてはいません。意識できる部分と意識できない広大な世界の働きに目を向けることが大事になります。部分と全体のつながりを知ることが、健康を得るための必須の条件です。真の健康には、いかなる財宝や名声にも及ばない、喜びと心の躍動と調和の美があります。
痛みや苦しみは不調和からのメッセージ
痛みや苦しみは心身の傷つきや不調が発する神経の電気信号によるメッセージです。メールのようなものです。執着は神経の疲労を招き細胞を壊します。思考や感情の偏りはバランスを崩し全体を見失わせます。心身の調和が乱れきった時、苦しみや痛みは限界を超え、心身は病みます。しかし、人はその原因を突き止めようとせず、五感で受信した痛みや症状を除去しようとします。その結果、本質的な解決に至ることが難しくなります。瞑想は不調和のメッセージを、いち早く読み取るセンサーの働きをします。
反応から対処へ意識を変えれば心の病は改善できる
「木を見て森を見ず」という言葉があります。森に入れば目の前の木しか見えなくなります。これは人間の神経反応の現実であり、また限界なのです。人間が鳥のように空を飛べないのと同じです。森全体を見ようとすれば想像力を働かさなければ見えません。私たちは、基本的には「井の中の蛙、大海を知らず」の感覚で生きています。見たり聞いたりする感覚が受信する、ごく一部を見て、物事を理解したつもりになり、全体を見ることをしていません。それは神経や脳の働きが過剰になり壊れるのを防ぐためです。私たちが生きている現実は、ほとんどが記憶による感覚反応による自動操作的な行動です。井の中の蛙である私たちが大海を見ようとするなら、正しい知識に基づいた想像力を遣うしかありません。井の中から見る世界は部分であり、大海は生命全体を指します。それが反応から、対処(智慧)の生き方に変わる鍵になります。その生き方を継続することで新しい自分が創られていきます。新しい自分を作ることができれば、いかなる心の病も治すことができるとブッダは教えてくれました。
瞑想のやり方を間違えると 迷妄の世界に入り 心の病は増幅する
最近、瞑想が流行していますが、瞑想の本質がわかっている人が、どれほどいるのでしょうか。心を病んでいる人が、安易に瞑想を行うと迷妄の闇の世界に入ってしまい、心の病は増幅することになります。本来、瞑想はインドの古代社会で実践されていた生命を浄化し、生命全体を直感することを志向するエネルギーを必要とする修行法の一つでした。釈迦・ブッダは、先人の実践に学びながらも、自ら独自の瞑想法で生命の真実(生命の全体)を悟り、仏の境地を得た(注1)と言われています。以下は少し専門的な話になります。ブッダの悟りに至るための修行法の一つに禅定波羅蜜・ぜんじょうはらみつ(注2)があります。簡単に言えば瞑想によって悟りの境地に至る修行法です。
瞑想は、実は誰人も実行している
瞑想は日常という現実世界から離れ、非日常を体験することです。現実を離れ、自分を客観する世界に入ることです。つまり、一人静かに自分を振り返ったり、内省したり、自然の中を歩きながら、自分を見つめたりすることや日記や記録をつけたりすることも立派な瞑想です。瞑想は特別なことではなく、人間の営みの一つであり、自らを成長させる、かけがえのないものなのです。自分を省みることや反省が自分を高めることにつながるのは、想像力による自己客観視のたまものです。これをメタ認知、鳥瞰的見方という人もいます。しかし、心の病を治し、真の健康を得るには、本格的な瞑想が必要になります。ここでは、その本格的な瞑想について述べてゆきます。
(注1)仏の境地を得た…仏とは宇宙の真理を悟る智慧を体得した人のことを指した言葉です。仏性(ぶっしょう)は宇宙生命の智慧や慈悲を含んだ不思議な法を指しています。仏の境地という場合、すべての生命的存在に内在する不思議な智慧と慈悲の法を悟り、それに基づいて生きている人という意味になります。具体的にはブッダなどの聖人を指します。聖人とは、生命の永遠性と無量の智慧を直感し、その智慧の力で、多くの人々を実際に救済した人のことです。仏教史上、ブッダのほか、天台、最澄、日蓮とされています。世界に目を転じてみると、思想・哲学は異なりますが、孔子、イエス・キリスト、ソクラテスも自らの思想・哲学で多くの人々の精神を高め、救済した人とされ、聖人と言われています。
(注2)禅定波羅蜜…仏の境涯を得るための修行法の六波羅蜜・ろくはらみつの一つ。波羅蜜とは、今の自分が悟りの道に至るための修行の方法という意味です。詳細はこの文章の末尾に付録として記載しています。
日本の瞑想(禅)は 達磨(ダルマ)大師から 道元(鎌倉時代の僧侶)に伝わったもの
ブッダ以降の仏道修行者の一人、インドの達磨(ダルマ)大師が独自の禅を考案し、中国の禅修行者を経て、日本に伝わったとされています。鎌倉時代に栄西や道元(どうげん)が禅を布教しました。道元は釈尊が涅槃経(ねはんぎょう)で説いた言葉を信じ、独自に修行の世界に入ることを目指しました。それが「不立文字・教外別伝」(ふりゅうもんじ・きょうげべつでん)で、ブッダ(釈尊)の言葉から離れ、独自に悟りの世界に入る修行でした。しかし、指標なき瞑想が、どこに向かうのか、先人の言葉や正しいイメージのない瞑想は闇の中を彷徨(さまよ)ことになりかねません。道元も死ぬ直前の日々は、釈尊の法華経の一節を毎日読誦していたと言われています。心の不調者や病んでいる人は、迷いの世界にいます。そんな人が禅の瞑想をやればどうなるのか、想像しただけで結果は見えています。瞑想は意識から入ります。その意識が迷いの状態にあり、指標がなければ、漂流するしかありません。神経を遣った分、迷いと苦しみは増幅されるでしょう。私も、大学時代にギャンブル依存がひどかったとき、座禅を試したことがありますが、効果を感じることはできませんでした。指標なき瞑想をすることで、今の迷いの自分から離れられるかどうか疑問です。魔界(生命の秩序を壊したり、破壊したりする働きが起きる世界)に入ることも考えられ、危険性があります。瞑想には正しい師や指標が必要なのです。
マイドフルネスの目指す瞑想法
マインドフルネス考案者のカバットジン氏は、日本で道元の禅を修行し、それを基にして、独自の瞑想法を開発しました。しかし彼のマインドフルネスは禅とは別のものだと私は思います。彼はイメージや言葉から生命の全体の秩序や調和に迫っています。それが「呼吸瞑想」「歩行瞑想」「今やっていることに対することに意識を集中するという瞑想です」。つまり、「今、生きている瞬間に集中する」という簡単なものです。簡単ですが、私たちは、今という瞬間に、なかなか集中できません。雑念が雲のように湧くからです。過去の記憶から流れてくるような想念に流され、今を過去の記憶の反応で生きているからです。結果、今を生きることができていません。集中力を高めるもっともよい方法が呼吸瞑想です。また身体を観察する「ボディスキャン」です。彼が考案したボディスキャンで部分と全体のつながりを感じてゆくことができます。そうすることでストレスを低減することもできます。
心身を健康にする瞑想法
真の瞑想は想像力と思考力を遣って、生命の深層に接近する心の修行です。想像力と思考でブッダの言葉を指標にして深層に入り、本来のありのままの生命の振動にリズムを合わせ、私たちの自己と宇宙的自己が冥合(みょうごう)することが真の瞑想です。そのとき、私たちの意識という一部は、生命全体を直感します。ニコラ・テスラがいう、「宇宙を受信する」ということであり、振動数が重なることと言えます。
「想像力は知識より大事である。知識には限界があるが、想像力は無限であり 宇宙をも包みこむ」 とアインシュタインは言いました。宇宙の物理的真理の一端を覚知された彼の言葉は意味深長です。以下に述べる事柄は、感覚では理解できません。知識を指標として想像力を遣えば感じられる世界です。芝蘭の室の瞑想は、1、「身体瞑想」2、「地球自然瞑想」3、「詩朗読瞑想」の三つを実践し、心の状態にあったものを使います。前提としての生命の働きを理解する心理学習は必須です。特に心の病の重篤な人は、「詩朗読瞑想」を中心に行います。
心の病の四相
心の病を感覚受信、反応、エネルギーの量という視点から、私は四相に分類しています。1、神経症傾向(強迫性、パニック障害、恐怖症、対人不安、トラウマ、解離など)2、パーソナリティー系。 3、うつ・躁うつ系。 4、統合失調症スペクトラム系。神経症系はエネルギー量を多く持っているので、正しい心理学習で自らを知ることで、比較的早く改善可能です。ただし、トラウマの強度が強い解離性に関しては、特別なかかわりが必要になります。パーソナリティ系は、エネルギーはありますが、波が激しく自己コントロール不全に陥りやすく苦しみます。幼少期の愛着の問題が複雑に絡んでいるため、認知と感情の偏りが大きくなっています。その調節には関係者の粘り強い支援と心理学習が必要になります。うつ系はエネルギーが低下していますので、心身の調節をし、エネルギーの補充が何よりも一番です。休養と軽い運動、気分転換や旅行や趣味を優先します。生活習慣リズムの改善が必須です。エネルギーが出てきたら、心理学習や身体・地球瞑想、詩朗読瞑想を行います。対応を誤ると遷延(せんえん)し長期間、病むことになります。統合失調症系は、深い深層から起きる観念が現実化し意識を支配しているので難治とされていますが、改善可能です。かつてアメリカの精神科医サリバンは統合失調症入院患者をほぼ改善させたとの報告も残っています。つまり統合失調症も対処によっては改善できることを教えてくれています。心理学習と生命の深い深層の流れの転換が必要になります。心理学習、身体瞑想、地球瞑想を含め、詩朗読瞑想が最も効果的です。