「大事なのは、まだ誰も見ていないものを見ることではなく、誰もが見ていることについて、誰も考えたことのないことを考えることだ」(シュレディンガー、20世紀の物理学者、波動力学を提唱、ノーベル物理学賞受賞)
生きていると感じるのは…
生きていると感じる…それは生命が受け取った神経感覚を、意識が感情と言葉に変調したものです。楽しい、苦しいなど、対象によって変わる感覚を意識したものです。全身麻酔にかかれば、痛みも、意識もなくなりますが、生きています。意識が潜在すれば、生きていることの苦楽の実感もなくなり、植物的生の状態になります。これは脳の一部の機能が麻痺した状態であり、脳幹などの働きは動いていますから、呼吸もし、心臓も動き、血液も全身をめぐっています。植物は痛みの神経(情)が潜在しているので、苦楽を感受する機能はないように見えますが、光を感じ、細胞壁が神経の変わりをし、外の世界と交流しています。植物は、人間が温かい声(振動)をかければ、それを感じ喜ぶかのように成長します。潜在している心が、こちらの心的波動によって刺激され働くのです。この世に存在するものは、すべて振動している(付録)と量子力学は発見しました。人間も麻酔や眠りで意識が潜在状態になった場合でも、心全体(注1)は動いています。生命の働きは不思議です。
(注1)心全体…西洋では、20世紀にフロイトによって、人の意識は無意識層に左右されるという無意識世界が発見されました。意識は心全体の氷山の一角にすぎないとフロイトは言います。彼は催眠や夢分析によって、無意識層に潜在する心的外傷体験(トラウマ)がもたらす神経症症状を治したと言われています。東洋では、約2600前に釈迦(悟った後は釈尊、仏陀・ぶっだと敬称されるようになる)によって、宇宙大に広がり、永遠に存在する生命(心の全体)の振動を覚知されたと言われています。その覚知した振動(周波数)を比喩としての言葉に変調し、経(八万宝蔵といわれる経典)として後世の人たちに残しました。またその法で、実際に多くの人を救い、あらゆる病を治し、医王と呼ばれました。その真理の法は、志を等しくする継承者たちによって今日まで伝えられ、生き続けています。
意識とは…
生きていることを感じる私たちの意識とは、一体何でしょうか。現代科学でも、解明できない謎の一つです。はっきりしていることは、私たちの意識は、脳の働きに関連して起きる現象ということです。だからといって脳から意識が生まれるのではなく、脳を経由して働く、分析できない存在です。意識は、脳がシナプス(注2)を通して受信する無数の電気信号のオーケストラの奏でる音楽にたとえることができます。それはシナプスで送られる無量の電気信号が変調され、一瞬、統一された交響曲のようなものです。各楽器が感情となり言葉になり、生きることを演じます。また、その振動はエネルギーとなり波動を通して、周囲に伝わりますが、私たちには見えませんが、感じることはできます。「第六感は誰にもあります。それは心の感覚で、見る、聴く、感じることがいっぺんにできます」(ヘレンケラー)
(注2)シナプス…脳には1000億個のニューロン細胞があると言われています。その各ニューロン細胞には、ひものような細長いもの(軸索と樹状突起)が100個から10万個出ていると言われています。長いもので1mもあるそうです。その末端部分をシナプスと言います。脳内のシナプスは膨大な数になります。シナプスを通して各ニューロン細胞は電気信号(ナトリウムイオンなど)を行き来させます。シナプス間隙を行き来するのが、化学物質の神経伝達物質(ドーパミン、セロトニン、グルタミン酸など約100種類)です。シナプスを通った電気信号が記憶になり、意識に大きな影響を与えます。恐怖や快刺激はシナプスが大きくなり、強く記憶に残り、消えにくくなります。私たちが夜に見る夢は、シナプスの消滅や整理の働きをしていると言われています。脳波は脳の電気信号によって起きる電磁波の大脳皮質部分のごく一部を測定したものであり、脳の全体の振動をとらえたものではありません。脳内のヒモのようなシナプスは、宇宙の物質の究極の存在である素粒子のひも理論と似ています。脳の働きも素粒子の世界も不思議です。
意識は心身全体のリーダー
意識は広大な心のごく一部(注3)の働きであり、心全体ではありません。また意識は対象の一部しか感知できないという限界を背負っています。頭が痛い、おなかが痛い、憂鬱だなど、心身の一部の痛みや苦しみというメッセージを受け取り、思い、考え、感情を生み、行動へ導くのが意識です。意識は、私たちの心身全体を感知できません。つまり意識=自分ではないということです。体の司令塔が脳だとすれば、私たちの心身全体のリーダー的な働きをしているのが意識です。意識は生きていることの一部しかとらえることができませんが、意識によって行動の方向性を変えることができるのは確かです。自分を変えるとは、意識の方向性を変えることなのです。
例えば、痛みを受信した意識は、体から痛みを除去しようと、ある場合は活動を止めて休み、またある場合は病院などに行って手当をして痛みを取り除くという行動を指示します。また、おいしい食べ物など、心地よい感覚をもたらすものに対しては、愛着し、その行動を繰り返したりします。それらは意識が決める方向性です。意識の働きの一つは感知した世界に対して、その感覚を鮮明にし、言葉やイメージ化を図り、方向性を決めることです。
意識の偏りと執着という迷走が病気を招く
意識は部分しか感知できないため、部分への偏り、対象への過剰行動が起きます。例えば、好きだからと言って、朝から晩までスイーツを食べれば、病気になります。またゲームが好きだからといってゲーム三昧の生活をすれば、脳が緊張や興奮に耐え切れず狂い始め、やがて多くのシナプスが破壊されてゆきます。依存症は、意識の偏りや行動の過剰、執着の結果です。悪習慣病とも言えます。対象への偏りや執着は心身全体を狂わせます。多くの病は部分への偏りや過剰行動と執着が原因によって起きる不秩序状態です。いずれも心身全体の秩序を見失った姿です。これは身体だけに限ったものではなく、心も同じです。意識の方向性を変えれば偏りは調整でき、心身は健康になるということです。
自分を知り、意識を調和させることで、心身は健康になってゆく
「なんじ自らを知れ」「自分自身が無知であることを知っている人間は、自分自身が無知であることを知らないより人間より賢い」(ソクラテス)。人間は自分のことがわかっていない、まず自分を知ることが大事であると訴えた哲学者の言葉です。自分を知ることほど難しいことはありません。自分を知るためには、心を日常から離し、静かに心身を見つめることが大事になります。それを瞑想と言います。ここでは、自らの生命活動の母体である身体を知り、それを最大限に生かすための身体観察瞑想を紹介します。
意識から全体を把握し、心身の秩序と調和をはかる身体観察瞑想
想像力は知識よりも大事だ。知識には限界があるが想像力は無限である…アインシュタイン
身体観察瞑想は、身体の各部分を知識をもとに観察し、想像力を働かせて心身全体を感じ、秩序と調和を知覚する作業です。やり方は自由ですが、私たちの身体の各部分を一つ一つ観察していくのが基本です。以下は私が毎朝実践している身体観察瞑想です。
まず体を外の世界から守り、命を支えている皮膚から始めます。全身やけどで皮膚の1/3以上を損傷すると死に至ると言われています。人は通常人間の体の皮膚しか見ていないといってよいでしょう。皮膚の下に内在している、骨、筋肉、血管、脳、各種の臓器は見えません。皮膚が覆って守ってくれているからです。最近、皮膚は臓器と言われるようになりました。人体最大の免疫器官であり、無数のセンサーが埋め込まれた感覚器官です。皮膚は臓器や内部の身体を外の種々の細菌、ウィルスから体を守り、その総重量は十キロを超えます。人間の外側の表皮角化細胞は爪や髪と同じように死んだ細胞なのです。その死んだ細胞を見て美人だの美男などと私たちは言います。頭の先から足の指の先の皮膚を観察し、その働きを想像してゆきます。瞑想とは研ぎ澄まされた集中力を駆使した想像のことです。そして、それらの働きに感謝してゆきます。
次は骨です。私たちの身体を支えてくれている土台です。もし足の指を一本骨折したとしたら、痛みの激しさに、歩くこともできなくなります。たかだか、身体全体の千分の一以下の指の骨一本という部分すぎませんが、故障すると身体活動全体に支障をきたします。これが部分と全体の関係性です。部分は全体に影響します。また骨があるから体の姿勢を保つことができますし、二本足で大地に立ち、全体のバランスを取り、歩くこともできます。全体は部分によって構成されていることがわかると思います。意識は部分しか感覚できないことが理解できたでしょうか。
次は筋肉や腱・靱帯です。これらの働きで私たちは骨を動かし自由な動きができます。私はよく肩が凝るので、肩を触りながら肩の筋肉に、ありがとうと声をかけています。そのように全身の筋肉を観察し、その働きに感謝してゆきます。
次は脳と神経です。脳は頭蓋骨に守られ、脳との間に髄液が存在し、衝撃に耐えられるようになっています。脳の外側を覆っている大脳皮質は私たちの思考や見る、聞く、体を動かす、記憶するなどの働きを担っています。一瞬のうちに視覚野は外の世界の形や色を識別したり、聴覚野は音の種類や声を区別したりします。脳幹は生きるための呼吸、睡眠などの働きを担っています。脳内には億を超える神経細胞・ニューロンが存在し、そこから波状的に出ているシナプスの数は兆を超えています。そのシナプスとシナプスの間は無数の電気信号が飛び交い、脳全体としては無秩序に一秒間に十回近く振動し、混沌としています。それがある瞬間、混沌が統一された秩序状態を作ります。それが気づきであり、気づきの流れが意識であると脳科学者のフリーマンは言います。
また、神経細胞は脊髄に守られ、その管の中にはやはり髄液が流れ、衝撃から神経を守っています。その神経は体の隅々まで末梢神経として張り巡らせ、体の異変、快・不快、傷つきなどを信号として意識に届けます。意識は、痛み、苦しみ、心地よさなどを受信し、方向性を指示します。
次はホルモンです。ホルモンは炎症を抑えたりして体を調整する恒常性機能の役割をします。脳幹の近くにある下垂体ホルモンはメラトニンなどの働きにより睡眠の調整をしたりしています。喉の下あたりある甲状腺ホルモンは、やる気などに関係しています。副腎のホルモンはアドレナリンなどによって情動を調整します。性ホルモンは男女機能を調整しています。ホルモンは血液に乗って、必要なものを必要な臓器に届けます。ホルモンは情動という感情を生み出します。ホルモン機能の調和は感情の安定をもたらします。
次は消化活動を担う働きを観察していきます。食べたものは顎の骨や筋肉、口内環境、歯、唾液、味蕾の味の感覚(うまい、甘い、塩辛い、酸っぱい、苦いなど)など総合的な働きによって、口内で咀嚼されます。そして食道の蠕動運動によって、下に降りてゆきます。その間には気管の入り口への誤嚥を防ぐ弁の開閉によって胃に届けられます。胃では数時間三十八度の温度で、食べたものが殺菌され、保管消化されます。食べ物の過剰を防ぐため二~六時間胃にとどまります。もし次から次に食べ物が腸に流れていったら、腸が疲労し壊れてしまうからです。
十二指腸で本格的な消化活動が始まり、膵臓や胆嚢の酵素によって、血糖値を調整したりして消化が進みます。約六メートルある小腸でさらに本格消化が始まり、血液に乗って肝臓に送られます。肝臓は約1.2㎏もある最大の内臓器です。そこで食べ物は加工・貯蔵され、血漿を通して各臓器に栄養となって運ばれます。血漿水・血液は、細胞の排泄物を受け取り体内をめぐり腎臓で濾過されます。大腸では数十兆個の大腸菌によって消化吸収され、残物が直腸に溜まるとサインによって便として排泄されます。食べたものは口から入り、各消化器系の臓器をたどり約二日間の旅をし、全身の各細胞のエネルギーになります。普段は考えることすらありませんが、私たちはこうしたエネルギーのおかげで生きています。意識で生きているわけではありません。全体の細胞の働きの組織だった調和で生きているのです。
食べ物は消化され、血液を通して全細胞に運ばれます。しかし食べたものの中には、毒性なものや細胞に悪いものも含まれていますし、過剰な栄養分もあります。それらを浄化するのが腎臓です。腎臓は一分間で一リットルの血液を浄化し身体を守ります。糖尿は血液の濁りに影響しています。その濁りがひどくなると腎臓の機能も壊してしまいます。食べ物はすべて栄養となりエネルギーとなるわけではありません。栄養であり薬であると同時に毒にもなることを知らなければなりません。肝臓は食べ物を解毒したり、保存したり約四百の加工的な働きをしながら体を守り動かしています。全身に張り巡らせているリンパ腺やリンパ節は外敵から身を守る免疫活動をし、血液の浄化や水分調節し体を守ります。
次は呼吸器系と循環器系です。私たちは食べ物と呼吸で生きています。呼吸は体内に酸素を取り入れ二酸化炭素を外に出します。鼻から入った空気は汚れているので、鼻腔で鼻毛などにより、ほこりなどの汚れた空気が気管に入るのを防ぎます。アレルギー性鼻炎は、この鼻腔の働きの過剰反応と言われています。鼻腔を通過した空気は喉を通ります。この喉のリンパ球がウィルスや菌を駆逐します。この戦いに敗れると風邪やインフルエンザになったりします。喉を通過した空気は気管を通り肺に入ります。
肺には約4億の肺胞があります。その肺胞の一つ一つの周りは無数の毛細静脈と毛細動脈に覆われています。肺胞に入った空気は、毛細動脈を経て、大きな大動脈に送られ心臓に入ります。心臓から鼓動によって動脈の中のヘモグロビンによって全身の細胞に酸素を届けます。そして二酸化炭素を受け取り静脈に乗って、心臓に戻り、やがて肺の周囲の毛細静脈に帰ります。それが肺胞に入り、吐く呼吸と一緒に外に出てゆきます。4億の肺胞は酸素と二酸化炭素の交換を行っています。こうして私たちは呼吸で生きています。こうした神秘な秩序ある働きをアインシュタインは神と言い、ブッダは「如来秘密 神通之力・にょらいひみつ じんづうしりき」(注4)と表現しました。こうした働きに畏敬の念が沸き起こり合掌する思いになります。
以上が毎朝行っている私の身体観察瞑想です。この瞑想のおかげで、たくさんの気づき、閃き(ひらめき、インスピレーション)がおとずれ、自分の身体が、何にも替えがたい貴重な宝であることに気づくようになりました。そして今まで以上に、身体を大事にするようになりました。その結果、健康になり、心も健全になり、充実した日々を生きています。身体観察瞑想は、朝でも、夜でも、どんな時間帯でもよいと思いますが、毎日続けることが大事です。静かな落ち着いた場所で行うと効果的です。時間は自由です。私の場合は、大体15分~20分程度で行っています。継続してゆけば、必ず効果を感じるようになります。まず意識が健康の方向に向かうようになります。三か月継続すれば、自分が善い方向に変わっていることを実感できるようになります。
(注3)意識は広大な心のごく一部…見ないが働きとしての存在を感じるものを心と表現しています。縁(対象・法)に応じて変幻自在に生滅を繰り返します。有ると思えば無くなり、無いと思えば確かに浮かんでくるように、縁によって潜在と顕在を繰り返します。ブッダ(釈尊)はその存在を空(くう)、縁起の法ととらえました。「空」は無数の電波(潜在)が受信によって映像化(顕在化)されるものと似ています。顕在した一部を六番目の意識がとらえます。唯識生命論(世親作、300年頃のインドの人)は、潜在した心の世界には膨大な見えないが確かに働くものが存在し、縁によって意識に侵入するかのように顕在するものを発見しました。
フロイトは、心の世界を自我、超自我、イドという三層構造に分析したものでした。その根源をイド(性的衝動)としました。弟子であり、共同研究していたユングは、自ら統合失調症体験をしたと言われています。その体験もあり彼はフロイトのイド説から離れ、独自の無意識心理学を展開してゆきます。いわゆる個人無意識、集合無意識説です。ユングは、「チベット死者の書」「禅思想」に関心を持ち、西洋的自我の危機を救うのは東洋の英知だと言っていました。彼は、自分が感じた心の深い世界を曼荼羅(マンダラ)で表現しています。彼の無意識世界の洞察は唯識のアラヤ識に影響を受けていたことがわかります。
潜在識として意識の下に存在する七番目の末那識(マナ識)は思量識(自我執着識)と言われます。いろいろな思いがそこから意識に上ってきます。その思いは、自分が愛おしい、自分はすばらしい、自分が存在する、自分について無知など自己愛に執着した愛憎の識とされています。その下に、さらに現世の記憶、膨大な過去世の業(ごう)を貯蔵した八番目の阿頼耶識(あらや識)を発見しました。その業(過去の行為の蓄積、現世では脳内の記憶)が、末那識を経由し、意識を染色します。阿頼耶識と末那識が脳内のシナプスの活動に影響し、記憶と行動や感情に大きな影響を与えます。
天台智顗・ちぎ(中国、6世紀末の人)は、阿頼耶識の下に、九番目の識である根本浄識を止観(注)によって発見しました。それが宇宙根源の法であり、宇宙に広がる生命の真理の法と釈尊が悟った世界と同じものでした。それは宇宙生命の無分別法であり、宇宙すべてにつながる九識の法(コラム)と言います。つまり、宇宙即我(宇宙はそのまま我であり、我はそのまま宇宙である)とのブッダの悟りでした。この九識に生きるとき、生命は絶対安心の清らかな障りも恐れもない境地になるとブッダは自らの体験から語ってくれました。ブッダは自らの人間の中に仏を見たのです。そして仏(覚者)になりました。(注3)終わり
(注)止観…心の流れをいったん止めるかのように、言葉やイメージで心を観察し浄化された集中心で、流れる心そのものになりきるという究極の瞑想法。
(注4)如来秘密 神通之力・にょらいひみつ じんづうしりき…釈尊が法華経(注)で説かれた重要法門の一つ。如来とは仏を指しますが、広義には、私たち生命の根源的エネルギーと解釈できます。瞬間瞬間、如如(にょにょ)として来る生命のことです。その生命は私たちには思議することが困難であり、仏と仏のみが知る究極の悟りというのが「如来秘密」ということです。私たちの本来的生命エネルギーは、神通之力と言います。不思議な働きということです。鳥が空を飛ぶのも、魚が水の中で生きるのも、私たちが言葉をしゃべるのも、振動を声として聴きとるのも、すべて神のような働きなのです。それを如来秘密 神通之力といい、仏の働きであり仏性(仏の目に見えない働き)と言います。
(注)法華経は妙法蓮華経の略語…生命の真理全体を説かれた釈尊の最重要の究極の法門で二十八品からなります。天台智顗は、その法華経を摩訶止観で解釈し、さらに深めました。法華経は、日本では聖徳太子、最澄、日蓮へ継承されてゆきます。
(コラム)九識の法…唯識生命論(世親作)は、人間の心の働き、煩悩を瞑想によって八識まで発見しました。眼識、耳識、鼻識、舌識、身識の五識は感覚器官で、私たちの内外世界を受信します。それらを鮮明にし言語化し、情を感じるのが六番目の意識です。潜在識として意識の下に存在する七番目の末那識(マナ識)は思量識(自我執着識)と言います。その下に現世の記憶、膨大な過去世の業(ごう)を貯蔵した八番目の阿頼耶識(あらや識)を発見しました。天台は、阿頼耶識の下に、九番目の識、根本浄識を見出しました。それは釈尊によって、宇宙根源の法であり、無分別法(森羅万象は一法より生じる…宇宙のもろもろの現象は一法…サ・ダルマ・プンダリキャ・ソタラン(漢訳すれば、妙法蓮華経)より生まれ、無始無終であり、永遠に生滅を繰り返す法であると悟達されたものと同じです。
ニコラ・テスラは「存在とは、光の無限の形象の表現です。なぜならエネルギーは存在より古いからです。そしてエネルギーによって、すべての生命は織りなされたのです。これまで存在したあらゆる人間は死ぬことはありませんでした。なぜならエネルギーは永遠だからです。神とはエネルギーのことです。神とは意識を持たない生き、そして産み出し続ける力です。この存在の世界において、あるのは、唯一、一つの状態から別の状態に移ることだけです。これがすべての秘密の回答です」とインタビューで語ったそうです。
(付録)すべて振動している…この宇宙に存在するすべてのもの、物質、空気、液体などはすべて原子、素粒子で構成されていると物理学は発見しました。その素粒子は振動し音を出し、独自の周波数で波動します(周波数…一秒間に振動する数、単位はHz・ヘルツ)。周波数が高いと波動も大きくなります。この宇宙で最も周波数が高い存在は、現代量子物理学の発見によると光とされ、400兆Hz(赤外線)から700~800兆Hz(紫外線)と言われ、思考や想像を超えた神がかり的な奇跡の周波数です。
私たちは光で生きています。また微細な光を体から出しています。それをバイオフォトンと学者は名付けています。私たちの身体と心は無数の周波数を奏で、瞬間瞬間、秩序を作りながら流れています。ある瞬間、その多数の振動が統合されたものが意識であるといった脳科学者(フリーマン)がいます。苦しみの周波数は一つの形があると推測されますが、音階が同じでも音色が違うように表出された周波数と、その波形は無数になります。それが生物や動物や人間のかたち・相の違いを形成していると思われます。その相も仮に和合されたものであり、絶えず変化しています。この世のすべては仮に和合したものが変化しているにすぎません。
〇筆者の生命哲学研究歴… 広島大学総合科学部(一期生)在学中から、哲学、文学、思想、物理天文学、日本人の行動様式論、生と死の宗教(主としてキリスト教と仏教)、心理学、仏法生命哲学を研究してきました。深層心理学と仏法生命哲学研究歴は50年を超え、ここ10年は量子力学、自然科学、身体・脳科学と仏法生命科学(中心は法華経)の関係性を重点的に研究しています。学びの旅は今も続いています。
自分が悪い方向に向かっていることのメッセージ…それは苦という感覚が教えてくれます。苦は心に闇をもたらし、私たちを迷いの海に漂流させます。しかし、苦は自分が変われるかどうかの試練にもなります。なぜなら、苦なくして生命の浄化はできないからです。それを「苦に徹すれば珠になる」(注1)とも言います。苦の受容なくして、私たちは善い方向に変わることはできません。苦を契機に、自分を善い方向に変えることができれば、心は秩序を取り戻し、楽が心に満ちてゆきます。人は、善い方向に変わる可能性を持った存在であることを、偉人たちは教えてくれています。しかし、現実は、人は善い方向に変わることができていません。ほとんどの人が現状維持の習慣力で生きています。なぜ変われないのでしょうか。
(注1)文豪、吉川英治の言葉。歴史小説を100冊近く残しています。著名なものに、「三国志」「宮本武蔵」「新平家物語」「太閤記」などの名作があります。
悪い方向に変わるのには、努力も正しい学びも必要ない
悪い方向に変わるのは、簡単です。泥棒も、強盗も、詐欺も、いじめも、モラハラも、クレーム行為も、パワハラも、暴力も、殺人も、各種依存症も、欲望の趣くままの行為だからです。それも生命の破壊的働きに支配された行為です。生命の破壊的働きである魔性に支配された生命の行き着く先は、苦しみが充満する心の地獄です。誰人にも内在する生命の破壊的働きは、自分の意識を支配し、そして人を支配します。それは、自分の意識が無方向の混沌としたエネルギーに支配された姿であり、良心が働かなくなり、悪を制御できなくなります。結果、行動は破壊的となり、人はどんどん不幸に向かって坂道を転がります。
建設や創造は死闘ですが、破壊は一瞬です。私たちの生命は、破壊と創造、生と死の闘いを、細胞レベルでも不断に行っていますが、私たちには意識できません。破壊と創造の二つの働きをもつのが私たちの生命の本然の姿(注2)なのです。破壊は悪であり、創造的建設は善です。破壊の最たるものが、人が人を殺す戦争です。戦争は大魔の働きです。戦争は人を破壊し、建物を破壊し、自然を破壊し、人間性を破壊します。その人間のもつ破壊性と真正面から戦ったのが、非暴力主義を貫いたガンジーです。
人間は、始めから、悪い方向に向かうのではなく、時間の流れの中で、善くなっていこうとする心を失うと、徐々に悪い方向に傾いていきます。表面に現われる行動には、それを支える心があります。見えない水面下で堕落が始まり、悪い方向に少しずつ傾斜していくのです。悪へ人を導くものは、欲望執着の強さであり、悪しき言葉であり、悪情報であり、悪友であり、悪信念です。それらをまとめて悪知識と言い、悪習慣とも言います。人はどんな欲望に執着するのか、とんな言葉や情報を信じるか、どんな思想を持つか、どんな習慣を持つのか、どんな友を持つのかで、善い方向にも悪い方向に向かい、病にもなり、健康にもなり、幸福にもなり、不幸にもなります。
(注2)破壊と創造の二つの働きが生命の本然の姿…生命真理の覚者(ブッダ)は、生命の本質を無明即法性ととらえました。無明を煩悩とも言います。無明は生命の混沌とした本来的エネルギーです。法性は生命のもつ創造性であり慈悲であり智慧であり光です。善悪どちらの方向にも向かいます。これは宇宙の存在のすべてが持つ生命現象です。現実の動物的生命(人間も含む)は無明に支配されています。戦争という人殺しが止まないのは、人間が無明に支配されている厳然たる証拠です。無明を法性に転換するには、生命の覚知しかないとブッダは悟りました。生命の覚知とは、比喩的に言えば、闇に太陽の光が差し込むようなものです。太陽の光に照らされれば闇はなくなります。無明は闇であり、太陽の光が法性です。生命の覚知によって、無明の生命を明らかに見ることができると言います。人々が無明を転換できれば、地上から戦争やいじめはなくなり、この世は浄土(争いや醜い欲望の噴出した濁った人の少ない国土)に変わります。その転換法は生命の覚者ブッダ(注3)に学ぶしかありません。なぜなら、すべては生命から起きている現象だからです。
(注3)ブッダ…生命の真理を直観智し悟った人のこと。覚者・ブッダは釈迦(悟った後、釈尊と呼ばれている)一人ではありません。この宇宙には無数のブッダが存在していると釈尊は言います。私たちも釈尊の真理の法を修行してゆけばブッダ・覚者になれると釈尊は言いました。私たちの生命の中に本然的に存在する尊い生命の働きを悟る、そのものになりきることを、真の悟りと言います。地獄の灼熱の苦も清らかな慈悲も創造性もすべて私たちの心の中にあるというのが本然の生命の姿なのです。
善い方向に変わる条件1…善い言葉、善い書物に出遭い、思考や想像力を働かせること
多くの人は、言葉や情報を吟味することなく、簡単にだまされます。なぜなら私たちは、思考する必要のない社会に生きているからです。社会が視聴覚中心の情報社会になっているからです。宣伝などの視聴覚中心の情報やAI情報は思考する機会を奪います。視覚への刺激の強さは、脳を麻痺させる力を持っています。視覚の刺激の強烈さは、残像を伴い、対象を印象深く心に刻ませ魅了し、人を衝動的に行動させる力を持っています。そこに思考力は必要ありません。欲望が思考を支配するからです。
賢い人の条件の一つは、読書力があることです。読書は、読み方一つで、思考力も想像力も養えます。ただ学校の勉強のように、受動的勉強や読書は身につきません。本人の知りたい、善くなりたいという意欲がなければ肉化できないからです。書物には、悪書もあれば良書もあります。良書は人を高め、善い方向に導いてくれる書のことです。良書は少なく悪書は蔵に満ちているのが現状です。
良書に出遭うことは、自分を善い方向に変える条件の一つです。見極める基準は、作者の人格や人間性、生きざま、その内容の科学的真実性を見ることです。その意味で言えば、偉人の伝記や真理を究明した科学書は、良書と言えます。私たちの精神世界を広げ、心を豊かに耕し、生き方を高めてくれるからです。偉人の言葉や真理の発見の集積である書(注1)は、人を善い方向に高め、幸福に導いてくれる最良の書です。
(注1)偉人の言葉や真理の発見の集積である書…孔子の論語、ソクラテスの弁明(プラトン作)、ブッダの経典、科学書全般(アインシュタインの書、ニコラ・テスラの書、物理・天文・医学・植物・身体学などの真理を解明した科学書)、ヘレンケラーなどの偉人の伝記など。
善い方向に変わる条件2…善い人に出遭うこと
人間は始めから人間ではありません。人に出遭い、人から多くのものを教えてもらうことによって人間になっていきます。この世で私たちが最初に出遭うの人は、母親です。母親の影響性は、何にもまして大きなものがあります。母の恩はどんな海よりも深いといわれるわけは、そこにあります。その人が、まともな人間であるかどうかを見究める条件の一つは、その人が親の恩を知っているかどうかを見ればわかります。カラスは、一人前になったとき、親に餌を運ぶ、恩鳥と言われています。恩を知らない人は、生命のレベル(注2)として、カラス以下のレベルなのです。母親が私たちを産んでくれたおかげで、今、こうして私たちは存在できているのです。親の恩を知らない人を畜生以下と聖人が言われた意味はここにあります。例え、どんな母親であったとしても、私たちを9か月近く、母胎の中で守り育て、この世に送り出しくれたのは事実です。その恩はどんな動物も感じています。善い人は、恩を知り、恩に報いる人です。過去の偉人は等しく、親の恩を知る人でした。
善い人は精神を高めてくれます。善い人の言葉は正しく、純粋で美しい響きがあります。何より生き方に嘘がなく真っすぐです。そして私利私欲がありません。そんな人のそばにいると、誰人にも本来、内在する善性が触発され、人格が少しずつ薫育されてゆきます。逆に悪しき人のそばにいると、「朱に交われば朱くなる」というように、人間が低下してゆきます。善い人に出遭うことは難しいことですが、書物を通じて善い人に出遭うことは可能です。偉人の多くは、書物で過去の偉人に出遭い、その人の思想や生き方を学んでいます。
善い方向に変わる条件3…善い人の言葉を信じて実行すること
人は観念を持つ。だが信念の中で生きる。…オルティガ(スペインの哲学者)
朝起きて顔を洗ったり歯を磨いたりするとき、水に毒が混ざっていると疑うことはありません。水を信じているからです。食べ物を食べるときも疑いなく食べます。食べ物を信じているからです。私たちは、普段は、対象や環境を疑うことなく受け入れています。信じるとは、対象や環境を受け入れることと言えます。私たちは習慣的に多くのものを疑うことなく、受け入れることで生きていけます。生きるとは、常に何かを信じることで成り立つ営みと言えます。
信じることによって自分と自分を取り巻く環境が一致します。信じるとは、対象を受け入れ、行動することなのです。それを智と言います。信じる対象によって、智のレベルや発動力は変わります。その智の高低によって、幸不幸が決まってゆきます。心身を破壊する悪い言葉や考え方などを受け入れれば、心身が傷つき、不幸になってゆくのは当然の結果です。逆に善いものを信じてゆけば、心身が福に満ち、幸の方向に向かってゆくのは道理と言えます。 善い人の言葉を信じて、それを受け入れ、実行してゆけば必ず善い方向に変われます。 「人は善根を成せば必ず栄える」(聖人)…人は善の行為を積み重ねてゆくなら必ず栄え幸福になってゆくという意味です。
善い方向に変わる条件4…常に学び、常に向上し続けること
私たちの体は一瞬の停滞もなく変化し続けています。心臓は休まず鼓動し続け、肺は酸素と二酸化炭素を交換し、血液は全身をめぐり、酸素と栄養を全細胞に届けます。脳細胞は常に振動し、全身の神経からの電気信号を受信します。40数億個の細胞は止まることなく新陳代謝し、変化し、生と死を繰り返します。自然も地球も月も太陽も宇宙の全存在は動き変化しています。人間の心が、もし停滞し止まれば、この変化に適応できなくなります。体や自然の変化に乗るように変化し、成長し続けることが、より善く生きることなのです。それが学びであり、学んだものを実践し身に付けてゆくことになります。そうすることで、心は更新し、善い方向に変化成長することができるようにます。
善い方向に変わる条件5…理想を持ち、その実現を誓って行動を止めないこと
私たちの最終目標は人格の完成であり、自己実現です。その理想に向かって進むとき、小さなことは気にならなくなります。
生きる、それは心身全体が記憶している習慣的行動といえます。外にある世界や心の中から浮かぶものに対して感覚が反応し、それを意識します。そして、考えたり、寝たり、食べたり、好きなことをしたりなど、すべて過去の知識と記憶が中心になって、私たちは動いています。それが今を支配しています。
心身を健康に保って生きる上で重要なことは、食べてエネルギーを得ること。呼吸で酸素を取りいれること、寝て疲労を回復させること、体を動かし全身に酸素と栄養を補給すること、経験したものから学ぶことなどです。食生活、生活リズム、考え方やものごとの受け止め方なども記憶され習慣化されていきます。私たちは今までの記憶された習慣で自動的に生きているからです。
「習慣は第二の天性なり」(古代ギリシャの哲人ディオゲネスの言葉)とあるように、習慣は後天的に作り上げた素晴らしい能力の一つです。
よい習慣は、よい人生をもたらします。よい習慣とは、ほどよくバランスを保って生きることであり、自然のリズに則って生きることであり、調和を大事にして生きることです。よい習慣作りは日常のことを意識し見直し、工夫することで身に付けることができます。よい習慣は人生を生き抜くうえで大きな力になり、健康な人生をもたらします。
1、呼吸…よい呼吸は心身を健康にします。
鼻で呼吸するようにします。口で呼吸すると汚れた空気が直接に肺に入り、血液が汚れる原因になるからです。緊張したとき、疲労したときは、鼻から息を吸い、口から静かに力を抜いて、ゆっくり吐きます。吸う(緊張・交感神経優位)、吐く(リラックス・副交感神経優位)。酸素を全細胞にゆき届かせる呼吸を心がけます。4秒程度で吸い、8秒程度でゆっくり穏やかに吐く呼吸(丹田呼吸・おへその下の部分を意識する)をこころがけるだけで神経は自然に調和されていきます。イライラしている時、不安や緊張の強いときは、この呼吸をすると落ち着きます。自律神経の調節に役立ちます。
2、 体によいものを食べる、飲む…消化、吸収、代謝を促す飲食をこころがけます。せっかく食べても栄養として吸収されなければ意味がありません。そのためには、両あごで、よく噛んで食べます。白米のごはんで30回以上、噛むようにします。よく噛むことの効用はいくつもあります。食べ過ぎを防ぎます。自律神経の働きがよくなります。脳が活性化されます。唾液には殺菌作用があり免疫力を高めます。消化吸収を助け造血作用を高めます。よいネルギーになり生きる原動力になります。
3、よい睡眠をとる…生活を自然のリズム(太陽・地球)に乗せるようにします。日中の生活が睡眠に影響するからです。太陽リズムに合わせた、早寝早起きのリズムは最適です。睡眠は新陳代謝力を回復させる健康の必須要素です。睡眠不足は、身体を疲労させ、病気を招きます。よい睡眠は明日の活力の源泉になります。二十二時から二時が、回復(新陳代謝…生まれ変わり)のゴールデンタイムと言われています。寝る1時間前はスマモ・パソコンから離れるようにします。スマホは脳や神経を緊張・興奮させます。緊張時は血管が収縮し、血液の流れが滞り病気の原因を作ってしまうからです。興奮も神経を疲れさせます。
4、心身に過度の刺激を与えないようにします。強い刺激は感覚に強いストレスになります。恐怖や強い快感など。スマホ、パソコン、テレビ、嗜癖的行為(ギャンブル、ゲーム、酒、歯止めなく没頭する行為など)私たちは、意識できていませんが、神経を疲労させています。
5、軽い運動と簡単な体操、リズム運動をこころがけます。運動は血行をよくし、副交感神経を活性化させます。緊張からリラックスモードになっていき、心身は調和されます。鬱治療の第一は、運動と言われるぐらいです。病に共通しているのは、血行が悪くなっていることです。その改善は、運動と呼吸が最良とも言われています。
6、朝の太陽の光を浴びるようにします。新陳代謝を促すからです。太陽光には殺菌作用もあります。体内時計をコントロールし安眠を促します。私たちは太陽から限りない恩恵を受けています。太陽の光なしでは生きていけません。
7、心と体に優しいエネルギーを取り入れるようにします。笑うと免疫力が高まります。温かな会話・音楽・読書・楽しいこと・自然散策・入浴・他者への思いやり・生きていることの感謝の心などをもつと心は落ち着き癒されます。
8、生きることは変化に適応する闘いです。闘わないと生き続けることはできなくなります。止まったり、停滞したりすると心身は衰え、弱っていきます(廃用性萎縮…使わないと廃って、滅びていく)。
正しい目的をもって前に進み、自分の弱い心に負けないようにすることで、環境に適応できていけます。学び続け、自分を向上させ、その光で自分を輝かせ、人も照らす太陽のような生き方を目指すと心の健康度が上昇します。
9、苦しみは楽しみの種子です。苦しみ、痛み、嫌な気分は受け入れること(反応から対処すること)によって軽く流せるようになります。生きるとは常に新しい経験です。自然も宇宙も私たちの心身も一瞬の停滞もなく動き変化していることを意識して生きるようにします。すべての変化・経験を学びとすることで、できごとを前向き、ポジティブ思考に変えることができ、自らの向上につながります。経験を全面的に受け入れることで自己肯定が高まります。その生き方は、苦を喜びに変える生き方につながります。寛恕(心を広くもち、思い遣り、恕す)の心をもつようにすると人間関係のしこりがなくなります。
10私たちが生きていること…それは意識活動(好き、嫌い、快、不快で感覚的に反応)ですが、全体の〇、一%以下です。意識できない世界で心身は活動しています。つまり意識できない働きは九十九、九%以上なのです。意識している一部分にとらわれたり、振り回されたりすることは愚かなことです。意識している世界から広大な潜在意識の世界という全体のつながりを感じて生きるようにすると大きく開けます。そのためには、今の瞬間の目的に、集中して生きることです。過去も未来も今にあります。今を深く生きることで、どんな嫌な過去も、新しく塗り替えてゆくことができるようになります。
善い方向に変わるのことを妨げるもの1…間違った言葉、情報、知識を信じ心が偏ること
私たちは、この世に誕生したとき、わずか直径0,2ミリほどの一つの精卵細胞という微小な存在でした。それがいつの間にか40数兆個の細胞になり組織化され、現在の]体に変化しています。これらの不思議な働きを生命の持つ慈悲といい、智慧ともいいます。この宇宙のすべては、慈悲と智慧によって産みだされたとブッダは悟りました。このあまりにも不思議な働きをユダヤの人たちは、人間の心の外にその働きを見い出し、神と名付け、万物の創造主としました。それに対してブッダは宇宙にもつながる法が、わが心の中にもあるものと直観したのです。誰人にも内在する内なる妙なる力であるからこそ、その法を覚知できれば、人は自力で自分の宿命を変えてゆけると説いたのです。この世界のあらゆる言葉も思想も宗教も、すべて人間の思考から始まっています。存在する言葉、思想、宗教は人間が創ったものであり、決して人間を離れてはいません。ここを間違えると正しい法から外れてゆきます。
慈悲は美しい秩序であり、調和をもたらします。慈悲は心が産み出す人間美の芸術です。慈悲ある人は内面から、素敵な輝きを放ちます。慈悲は絶えず変化し、更新される美しさです。私たちの生命は、もともと創造性と破壊性の二面を持っていますが、破壊性を創造性に変えゆく智慧を秘めています。その力を慈悲と言います。慈悲とは万物を産み出し育み慈しみ守り、苦しみを抜く大悲の智慧です。赤ん坊を無心に守り慈しむ母の振る舞いも慈悲です。慈悲は智慧を生みます。人間の最も美しい品性は慈悲です。桜の花を見て心を癒されるのは、桜の持つ慈悲の働きを私たちが感じるからです。すべての生物は、本来その慈悲の智慧力を内在しているとブッダは覚知しました。そして、それを私たちの生命に汲み出す方法を教えてくれました。
偏りや執着は秩序を乱し、病を招きます。過剰や不足はバランスを崩し、心身を不調にします。生命の本来の秩序を知ることが何よりも大事です。科学を信じて生きている私たちは、部分観に生きざるを得なくなっています。科学は部分の分析から法則を発見し、私たちの生活に利益をもたらすという実証を示しているからです。分析された対象は真実です。しかし、ものごとの全体をとらえてはいません。意識し分析できる世界と、意識を超えて分析不能な広大な世界の働きに目を向けることが大事になります。部分と全体のつながりを知ることが、健康になるための必須の条件です。真の健康には、いかなる財宝や名声にも及ばない、喜びと心の躍動と調和の美があります。それは心の中に、もともと潜在する慈悲と智慧が現れたものにすぎません。これを「無上宝珠、不求自得」(…無上の宝珠は求めざるに自ずから得たり)とブッダは説きました。宇宙最高の宝が、私たちの生命にもともと存在しているということです。その宝こそ慈悲のエネルギーなのです。慈悲は創造するエネルギーとも表現できます。その慈悲を私たちの生命に湧き出させる方法はブッダに学ぶのが一番です。自力で学び修行し、自らそこに到達するには、一生をかけても到達できないかもしれません。正しい先人の智慧に謙虚に学ぶのが早道です。正しいことが大事になります。正しくないと努力が徒労に終わるばかりか、偏りは執着を作り、不幸の原因になります。
善い方向に変わるのことを妨げるもの2…うまくいかない原因や不幸の原因を自分以外に求めること
不幸の原因、うまくいかない原因を自分の心の外に求める限り、自分を変えることはできません。他力本願は、依存心を強め、自立から遠ざかります。自分を変えるためには、うまくいかない原因を自分に求めることから始まります。
生命の流れは混沌としたエネルギーであり、人間の苦・不幸の原因を自らがつくりだします…仏法生命論では、生命の流れを「煩悩・業・苦」の三道の流れととらえています。煩悩は生命のもともとのエネルギーであり、混沌としていて、苦楽の両方を持った流れです。意識は快楽を求め、それを、五感覚を使って行為します。その行為を業と言います。その行為は習慣力を持ちます。特に刺激の強い、快楽と恐怖は、自動的に反復行為をします。脳内細胞の電気信号であるシナプスの配線が太くなっていて簡単に反応してしまうからです。人は五感の快を求め、思い・考えるという意識はそれを強め執着・愛着し、生命の調和を失っていきます。また恐怖という不快を極度に避け、結果恐怖にとらわれてしまいます。その不調和が病であり、苦をもたらします。
その流れの転換方法をブッダは、「法身・般若・解脱」の三徳と説きました。般若は智慧という意味です。法身は、私たちの本来の浄化された生命のことです。その生命には無量の智慧が内在されています。その生命の智慧を引き出せば、苦は浄化される(解脱)という流れに変わります。法身とは誰人の生命の中にも内在する、仏性・法性のことです。この生命を引き出すことができれば、あらゆる苦は楽へと変わってゆきます。その道を仏・菩薩道と言います。その道を行くには、ブッダのような正しい師と、宇宙の真理の法(三世の仏が悟った法)の学びが必要になります。「何も考えず権威を敬うことは真実に対する最大の敵である」とアインシュタインは言いました。
善い方向に変わるのことを妨げるもの3…五感覚の欲望に流されてしまうこと
善い方向に変わるのことを妨げるもの4…欲望の執着や依存が強く、悪い習慣を身に付けていること
善い方向に変わるのことを妨げるもの5…自分の心の恒常性を破れないこと
善い方向に変わるのことを妨げるもの6…臆病の心に支配され、勇気を出さないこと
(注2)生命のレベル…私たちの生命は、十段階のどれかの境界に属しているとブッダは覚知しました。
生命の位(10のレベル)…1、瞋る地獄界 2、貪る餓鬼界 3、保身の畜生界 4、優劣比較の修羅界 5、人間らしい人界 6、喜びの天界 7、学びの声聞界 8、智慧と発見の縁覚界 9、慈悲の菩薩界 10、平等大慧の仏界
私たちの生命は、人も植物も動物も以下の10種のどれかの境界に属して今を生きています。その生命状態が持つ固有の周波数と波形の音色を境涯と言います。1から順次、10に向かって生命空間は拡大し、生命力、智慧、慈悲は強く豊かさを増し、安定度も自由度も増していきます。1の地獄界が最低の境界で、10の仏界が最高の境界で智慧と歓喜の世界です。1から6までの境涯は、環境に振り回されやすく、特に1から4の境涯は、対象にマインドコントロールされやすくなります。
多くの人の意識は、6番目の天界を目指しています。その世界に楽しさ、喜び、快適さ、幸福があると思っているからです。6番の境涯を獲得しているように見える総理大臣や大統領や億万長者は、私たちの目には幸せそうに映ります。しかし、生命の位は6番の位置にすぎません。なぜなら、その境涯は、砂上の楼閣であり、安定せず、移ろいゆく仮の位であり、やがて跡形もなく消え去ってゆくものだからです。しかし、多くの人の意識は、その位置に執着し、不幸の原因を作ってゆきます。
鳥や動物も自らの家族や子どもを守るために自分を犠牲にし、中には命さえ捧げる動物もいます。動物の「かたち」をしていますが、その時の生命の位は9番目の菩薩界の高さにあります。人間が、勝手に人とか犬とか鳥とかに分類し名付けているだけです。「かたち」は異なりますが、すべて同じ動物であることには変わりません。他の動物からすれば、犬もカラスも人も同じ動物の一種なのです。果たして、どの生き物が生命の位が高いのか、実のところ判別できません。(かたち…人間、動物、昆虫、細菌、魚、植物などの「かたち」・体は過去世の自らの業・行いの集積が自ら決めるという生命の法則…下欄の阿頼耶識に詳述)
「世界でもっと素晴らしく、最も美しいものは、目で見たり、手で触れたりすることはできません。それは心で感じなければならないのです」とヘレン・ケラが言ったように 「心で感じる」しかわからないようです。植物や果樹は実ったコメや麦や実を他の動物に捧げるという崇高な働きをする9番を演じています。人は他の生物より、知的能力に優れているにすぎません。
動物や植物は「感じる」能力は、ある部分では、人間以上のものがあります。ミミズは目も耳も鼻もありません。皮膚で光を感じ、水分を調節し暗い土中で、光を感じて生きています。植物も光の感度は、人間を大きく上回る能力を持っています。家族や種を守ろうとし、命すら犠牲にする、ある種の動物より、人のほうが優れているといえるかどうかは疑問です。人は、鳥のように空も飛べません。しかし知的道具の銃で鳥を撃ち殺すことができます。人が他生物より優れているのは知的可能性だけです。すべての生物は、十境界を平等に持っています。
私たちを含め、この宇宙のすべての存在は、心の奥底で10の仏界の不動の境界を目指し、その方向を向いています。なぜなら、私たちの生命の生まれ故郷であり、母なる安心大地だからです。その境涯の修得こそ崩れない心の豊かさをもたらします。その境涯には、充実があり、強さがあり、賢さがあり、智慧に満ち、無上の宝珠があり、浄化された自由自在な喜びの絶対的幸福があります。それが、私たちを含めた生物の、ありのままの、本来の生命の振動と音律なのです。
1、地獄界…束縛された不自由な境涯。苦をもたらすものをはねかえせない恨み憎しみ、怒りと破壊の渦巻く境界。強い怒りが自分に向かえば自殺を招くことがあります。 瞋り(怒り)が原因で地下の獄につながれ、不自由となる最低の生命の境地です。怒るほどエネルギーは消耗し、最後は枯渇し、苦をはね返せなくなり、今、活力があっても、徐々に苦を受動的に無限に受ける身となっていきます。うつ病には、意識できない強い瞋りが潜んでいます。 その瞋りは自分を責める自責の炎となり、自らの生命を損傷し、気力を奪います。やがて、苦しみからの解放策として、死が甘美な装いを持って迫ってきます。自殺は、人間知性が生命の魔性・破壊性に乗っ取られた姿です。どんなに苦しくとも、知性を働かせ生き続けなければなりません。苦しみのエネルギーが死後も続き、永遠に続くことを思えば、生きている間に苦しみを乗り越えなければなりません(阿頼耶識を参照にしてください)。地獄界の起こす振動は不規則で、その波形は乱れ、波動は逆流し、破壊攻撃波は最後は自分に向かい生命力を奪い、死に向かいます。怒りという生命の魔性にマインドコントロールされ、自分を見失う境涯です。争い、戦争、破壊の主因は瞋りであり、地獄界を現出します。 (じごくかい)
2、餓鬼界…貪(むさぼり)・飢渇(きかつ)、執着、自らの欲望の炎(ほのお)に焼かれ、求めても得られない渇(かっ)し、もだえ苦しむ生命境涯です。 貪は貧で、貪るほど貧しくなります。あくなき欲望、身を焦がすような欲望が原因で、地獄に堕ちてゆきます。人は五欲(五つの感覚器官がもたらす快感)に執着します。快は心地よく、ドーパミンという快楽神経伝達物質は、電気信号を通じて、私たちの脳や心身を麻薬のように麻痺させるからです。対象に向かうエネルギーは一時的に高揚し、自他の損傷を招き、破滅に向かいます。金の亡者、人気・地位・名誉・異性に貪著・執着する人は餓鬼の境涯です。恋や性欲の奴隷であるストカー殺人の背後に貪欲の執着地獄の炎が見えます。餓鬼界の波動は竜巻に似ています。通りさった後に残るのは、無残にも破壊された残害物です。あくなき欲望にマインドコントロールされる境涯です。各種依存症は、依存対象にマインドコントロールされた状態であり、餓鬼界を中心に、愚かさ、瞋りが原因です。(がきかい)
3、畜生界…癡(おろか)、威張る、愧(はじ)ない心、弱肉強食、強いものに巻かれたり、弱いものをいじめたり、傷つけたり、強いものに殺されたり、弱いものを殺したりする攻撃と恐怖の保身の先を見ない境涯です。何が正しく、何が間違っているかわからなくなり、道理に暗い世界です。残害(ざんがい)の苦を伴います。残害の苦とは殺される恐怖を味わうということです。動物や人は強いものに殺されるとき、この恐怖に震えます。愚かさが原因で恐怖と不安の世界に堕ちます。クレマーの心理もここにあります。相手が自分より強い人にはクレームできません。反撃されることを知っているからです。強い立場・高い立場を利用して下位のものをいじめたり、暴力をふるうのは、この畜生界の癡かさが原因です。目先のことしか見えず、そのとき倫理・道徳観はなく、人間も動物の本性になります。目先の欲望に己を失いマインドコントロールされてゆきます。
私たちの善悪の行為は脳に記憶され、阿頼耶識(注3)に堆積し、悪行が多く積もると、来世は動物や餓鬼や地獄の世界に生まれ罪を償うことになります。これを因果律と言います。賢い人は、動物的生き方をやめ、人界を目指します。因果という道理がわからない者は、来世、動物に生まれることを無意識で希望しているようなもので、こうした生き方がとまりません。動物といってもライオンになるわけではなく、ハエやダニやゴキブリになるかもしれません。閻魔大王が決めるのではなく、すべて自分の生き方が来世の生のかたちを決めます。畜生界の強い人は、先が見えないほどの盲目さなのです。だから、畜生界を癡と言うのです。周波数は乱れ、音色に響きはなく、遅滞し、どんよりした波動を伴っています。各種暴力、パワハラ、いじめ、戦争の原因は畜生界が中心で、貪り、瞋りが原因です。(ちくしょうかい)
(注3)阿頼耶識…天親菩薩(5,6世紀ごろのインドの大乗論者、インドでは釈尊に次ぐ覚者、そのほかに竜樹菩薩がいる)が発見した心の八つの世界を唯識といいます。唯識とは、一切の現象は、ただ識としての心に映し出されたものにすぎず、万法は意識の変貌であり、識以外に存在するものはないということです。五感覚を通して現象を認識する、眼識、耳識、鼻識、舌識、身識の五識。五感覚は外の世界を把握する器官です。五感覚で区別した世界を言葉を通して感覚を鮮明にし、貪著(とんじゃく)するのが六番目の識としての意識です。七番目のマナ識は自我執着識とも思量識とも言われ、愛憎で汚れやすい潜在識で、染汚意(ぜんまい)とも言います。八番目の阿頼耶(アラヤ)識は、記憶の貯蔵庫と言われ、過去の善悪の行為をすべて貯蔵している識とされます。阿頼耶識は自分と他人を区別します。その働きが他生命との差別をつくってゆき苦に染まりやすくなります。私たちの「今」の生命活動は、そのアラヤ識から、マナ識を経て、意識化されます。このアラヤ意識が宿命・宿業を作る、一切の種子識とされ、私たちの次の生命の活動を自動的に産みだします。さらに来世の私たちの生の「かたち」(動物、人間、植物など)を決定すると言います。生命エネルギーは、「かたち」を変えますが、不変です。今の境涯が、来世も続くというのがブッダの悟りです。
以上の三つを三悪道と名付け、人間の苦しみの根本因としています。現代の世界の各地の戦争や紛争をはじめとした惨劇、社会的犯罪などの不幸な現象はこの三悪道から起きるとブッダは慧眼し、警告しました。まさに現実化しています。果たして人間はこの不幸の連鎖を断ち切れるのでしょうか? こうした人間の苦を解決しようと、人間の知性は宗教を作り出し、救いを求めました。宗教は人間苦の解放から生まれたものですが、あくまでも私たちと同じ人間の知性が作った言葉であり知識です。ここを間違えると、不幸は数倍に膨れ上がります。最近の社会的事件を起こした宗教がその事実を物語っています。
言葉や知識や思想・宗教は人の不幸を加速させる危険性を持っています。一例をあげれば、旧約聖書やハムラビ法典の「目には目を」という言葉は、「同害報復」を許す言葉ですが、それが、「殺されたら、殺せ」になり、殺人の連鎖を生みだし、戦争を継続させています。「目には目を」を脳科学から分析すれば、「攻撃には攻撃を」「怒りには怒りを」「憎しみには憎しみを」「恨みには恨みを」になり、その反復は、脳内の電気配線を強化し、瞋り憎しみは心深くに刻まれてゆき、抜けなくなります。そして殺し合いという戦争は激しさを増す結果になってゆきます。そこに人間を超えた神という言葉が登場すると、その行為は正当化され、人間倫理や道徳は神の名のもとに消え去り、地獄絵図が展開されます。その収束は、アルマゲドン(世界の終末に神と悪魔の勢力が最終決戦を行う戦い。新約聖書ヨハネ黙示録)という非科学神話で幕を閉じます。
また宗教・思想が集団化すると必ず腐敗します。どうしても不純物(私利私欲の人間)が混ざり、その不純さが集団内を汚染するからです。これは集団・組織の持つ宿命であり、10種の生命境界を持つ人間にとって、免れることはできません。何を信じるかで幸不幸が決まります。信じる対象の理論と科学的実証性が重要になります。科学性なき言論は詐欺といっても言い過ぎではありません。科学は理論を実験し証明し、現実に価値を生み出し、万人が納得できる形にします。科学は納得という説得力を持つものです。
ニュートン物理学のころから、今日まで、量子力学、素粒子力学などの形而下学・けいじかがく(物質学)が学問の世界を席巻・せっけんしています。その発見発明は人間の現実世界を利益し、価値をもたらしているからです。それに対して、心理学、哲学、宗教など形而上学(けいじじょうがく)は科学性に乏しく遅滞しているように見えます。物質世界は実験証明し法を発見します。形而上学は、現象を現象たらしめているものを把握する世界です。それは直観智による法の発見の手段をとります。
かたちや物質は、見えない働きで成立しています。その見えない働きを智慧と言います。その見えない智慧を悟る働きは、ヘレン・ケラが言う「心で感じること」なのです。それには生命の濁りを浄化することが必須になります。ヘレンは三重苦という想像を絶する苦との戦いの中で、心が浄化され、心で物事を感じることができるようになったのです。濁った生命の鏡には、正しいものが映らないからです。どのように生命の濁りを取り、浄化させるかが幸福になる必須条件です。その方法は先人覚者の、「抜苦与楽」(他者・自己の苦しみを抜き楽を与える修行)の菩薩道を鏡とするしかありません。自他ともの「苦しみを抜く」という苦との対決の中で、生命の浄化が進みます。「逆境は最良の教師なり」(イギリスの政治家、ディズレーリ)「艱難汝を玉にす」とはこのことを言っています。
ブッダは、この宇宙を構成する、すべての法を悟った人と言われています。その悟りの智慧に生きれば価値が生まれます。智慧には、大きくわけて10種あります。10種の境界に応じて発動し、生きる対処力が智慧です。智慧は必ずしも人を導くものではありません。そのときの自分の生命活動の対処力です。犯罪者のような悪知恵、人をだます知恵、殺人機械を作る知恵など智慧もいろいろです。地獄界の智慧が最も光が弱く仏界が最高の光を放ちます。物理学、量子力学の智慧は、8番の縁覚の悟りの光です。アインシュタインの発見を可能にした智慧も8番です。仏の智慧は、仏智といい、宇宙を照らすと言われています。仏法は、宇宙の法と智慧を発見した科学です。それは正しく実践したもの者によって今日まで証明されてきました。しかし、証明者の数が少ないのです。理由は、正法の実践の難しさより、仏法を正しく伝える私利私欲のない清廉潔白な人が少なかったからです。(知恵と智慧の違い…知恵は、すべての対処力を指し低いものから高いものまでを含みます。智慧は、価値を生み出す対処力という意味で使っています)
4、修羅界…いつも人と比較し、人より勝りたいという気持ちに支配されている境涯。傲慢になり、嫉妬に苦しみます。人より優れようとしたり、劣等に苦しんだりする戦々恐々とし、心が揺れ動く不安定な境界です。自分が優れていると思ったり、劣っていると思ったりし、心が安定せず、ものごとを正しく見ることができなくなります。認知が大きく歪んでしまい、心も屈折してゆき、病んだ心を作ってゆきます。現代の競争社会…学歴、成果主義社会の根底にある生命は修羅界です。人と比較し、人に勝とうと思い、心は安定しません。目はいつも外を向き、自分を見つめる心を失いがちです。だから安定できないのです。その振動はぎこちなく、ある時は、鋭く対象に向かうため、無駄なエネルギーを使い、波形は乱れ、屈折します。虚勢を張って、格好よく見せようとしますが、生命の波形は人工的で、本当の美しさはありません。こうした競争社会に疲れ、家に回避しているのが、不登校・ひきこもりの要因の一つになっています。 (しゅらかい)
上記四種の世界を四悪趣(悪へ趣く生命) といい、不幸の原因の境界としています。あらゆる病はこの四つの世界の偏りが原因で起こります。 その偏りを、もとのありのままの姿に調和させ、病を治したのがブッダの仏法生命科学です。釈尊(ブッダ)は医王と呼ばれ、万病を治したと言われています。
5、人界…人間界。平穏、安定した思いやりに満ちた平和な本来の人間の生命状態、海や風の凪(なぎ)のような状態。人に勝とうとするより、自分に負けないように努力する境涯です。振動に、乱れは少なく、穏やかな波動を奏でています。そばにいても安心できる境涯です。常に過去の自分と現在の自分を比べ成長しようとします。人間らしい思い遣りの溢れた世界です。 この境涯を定着させて、生きてゆけば、来世も人間に生まれるとブッダは説いています。(にんかい)
6、天界「満足・充足・喜びの生命」…喜びの深さには三種類の世界(三界・さんがい)があるとされています。次にその三種を説明します。1、欲界・よっかい(五感覚の欲求がが満たされた世界…食べる、飲む、アルコール摂取、ゲーム・ギャンブルをする、寝る、住まい、衣服、性欲、物質、お金、名声、地位、権力など…一時的なもので壊れやすい) 2、色界・しきかい(作曲、絵を描く、文章を書く、科学の発見など学術・芸術の世界…深い充実感をともなう) 3、無色界・むしきかい…精神世界(言葉で思考したり、瞑想したりして、閃(ひらめ)きを得たり、何かを悟ったりする純粋な精神の世界…法悦・ほうえつ)欲界の頂上が魔王(生命の破壊王)の住所とされています。人は天界を目指して生きており、1、2、3の順番で喜びは深くなります。2,3などの世界は、自分に打ち勝つ軌道の先に訪れる世界です。ブッダは「三界は安定できない、まるで火宅のようなものである」と説き、さらに上位にある四境涯(四聖)を目指すことを教えました。(てんかい)
自分を変える道は、四聖の道を歩むことにある
人間はこの六つの世界を縁(対象)によって巡ります。六道輪廻(ろくどうりんね)しているとブッダは説きます。この六つの境界は環境に左右されやすい生命状態で安定できず、幸福になることは難しくなります。 ブッダは安定した世界を目指すため、次の四つの境涯(四聖の境涯)を目指すことを説きます。
7、知の探求者の声聞界…宇宙・生命の法を聴く、宇宙・生命の正しい法を学びます。そして自らの生命の真実を知る努力をします。広く言えば、正しい知識を学び、自分のものにする向学の心、向上する生命です。学生、学者、研究者など。直観知の一つ、慧眼(けいがん)を具えるようになります。 ソクラテス、プラトン、ニーチェ、キルケゴール、ショウペハウアー、マルクス、ベルグソンなどの哲学者などが代表です。(しょうもんかい)
8、法則の閃き発見者の縁覚界…宇宙・生命の法の一部を悟ります。見えない世界や法則を悟る、発見、発明、閃き・ひらめきの世界です。慧眼を具えます。ゲーテ、ベートベン。レオナルドダビィンチ、ニュートン、アインシュタイン、ニコラ・テスラなどが代表的な人たちです。(えんかくかい)
9、慈悲の菩薩界…自他ともの生命を高め慈・いつくしむ慈悲と智慧の振る舞い、自己中心性を克服し生命を大きく飛躍させる崇高な生命です。自他ともの抜苦与楽に生きる人です。人としての憧れの存在です。直観智の一つの法眼を持ちます。ヘレン・ケラ、ナイチンゲール、孔子、イエスキリスト、天親、竜樹などの菩薩などが代表的な人たちです。自分中心のエゴとの真正面の対決、生命の魔性との闘いが求められます。だから、人々は菩薩道を回避してしまいます。結果、仏界に至ることができなくなります。 (ぼさつかい)
10、平等大慧の仏界…生命の真実を悟り永遠性を覚知できる智慧と絶対安心、清らかな生命状態です。自由自在な境地です。生命全体を直感する仏眼を持ちます。六根清浄の果報、常楽我浄の四徳(コラム4)を得て、生きていること自体が楽しくて楽しくて仕方がないという絶対的幸福境涯になります。釈尊、天台大師、伝教大師、日蓮聖人、三世の諸仏などが代表的な人たちです。(ぶっかい)
以上の四つの境界は、生命が安定し、エネルギーに満ち、環境や他者を価値的にリードすることができると言われ、四聖・しせいの境涯と呼び、仏道修行の目標となりました。
生命の十界論…天台智顗・てんだいちぎ(538年~597年、天台大師のこと。隋の皇帝も帰依し国師となった人)によると、ブッダの究極の法を多面的にとらえ「一念三千論」の生命科学理論を提唱し、像法時代(釈尊滅後1000年から2000年の期間)の仏・ブッダ(生命の真理の覚者)と言われています。すべての人間の生命に等しく十境界は内在し、縁(対象)によって現れると説きます。人間は、今の瞬間に、10境界のどれかを表わしていますが、一定せず絶えず変化(生死を繰り返し空・くうの状態で存在)していると説きます。
書籍… 不登校・ひきこもり・心の不調から蘇る本(改善率96%) …6月出版予定(限定300冊)
第一章 不登校・ひきこもりの心理
1、不登校・引きこもりになったとき親が考えなければいけないことはどんなことでしょうか 2、なぜひきこもるのでしょうか 3、不登校、ひきこもりに不足している心の安心領域とは何ですか 4、現代社会はひきこもり・不登校にどんな影響を与えているのでしょうか 5,なぜ不登校・引きこもり・心の不調者が増加するのでしょうか 6、ひきこもり・不登校の心理的要因と再生の道 7、心の安心領域はどうすれば育ちますか コラム1 不登校を産み出す学校環境
第二章 生きることは空模様に似ている 雨の日もあれば晴れの日もある
1 人間の基本は自分の身を守る本能的行動 2 人間は思考する感情の動物 3 強い刺激は頭の中を巡り 心を乱す 4 生きることは空模様に似ている 雨の日もあれば晴れの日もある 5 生きることは闘い 闘わないと滅びるのが動物種としての人間 6 人間は何のために生きるのか…青年釈迦の苦悩
第三章 不登校・ひきこもり・心の不調を解決する心の具体的な方法
1,ストレスと健康 2,不安を軽減する方法 3,感情と思考と言葉 4感情は言葉や思考で制御できない 5,最も制御することが難しい感情は怒り 6,怒りを調整する方法 7,心を平穏にする方法 8,対人不安を軽くする対処法 9,嫌な気分を受け入れたまま生きる 10,執着を解放する方法 11,人の心が分かるようになるために 13心の壁は臆病が描き出した幻にすぎない 14,対人関係をよくするさわやかな表現法 15,安心感が育つと 自立しやすくなる 16,心が持つ不思議な働きと力を知ると心が軽くなる 17,地球の働きを知れば、本当の生き方に目覚めていく 18,生命本来のリズムに乗って生きれば心は安定し、平穏になっていく
第四章 本来の自己に出遭うとき、自分らしく生きることができる
1,自分らしく生きることが幸福 2,自分らしさの探求は社会常識との戦い 3,自分らしさの獲得は自分独自の規範を作ることにある 4,社会常識を昇華することが心の独立 5,自らの光で周囲を照らす生き方 6,自分というかけがえのない個性を自覚する 7,何に価値を置いて生きるかが大事 8,他人の評価に振り回されない自分を築く 9,健康的な習慣が自分らしさを発揮させる 10,自分を自分らしく表現する方法 11,自他尊重のさわやかな自己表現法
第五章 質問に回答する
1,自分が嫌いです。自分を好きになるにはどうすればよいですか?(高校生)
2,人は死んだらどうなりますか?(大学生)
3,生まれながらに差別があるのはなぜですか?(中学生)
4,いじめは、なぜなくならないのですか(高校生)
※この書は、知識を集大成させた机上の学問の本ではなく、思想、哲学、文学、宗教学、心理学、身体学、諸科学の筆者の遍歴と50年間の教育実践、思春期の青年との関わりから試行錯誤し、研究したものから生まれた経験・実践をまとめた筆者独自の芝蘭の便り・本です。
以下に、第一章の1
第一章 5 親が 考えなければならないことは、どんなことでしょうか
子どもが不登校・ひきこもり状態になったとき、親が考えないといけないことは、原点に戻ることです。この場合の原点とは、苦しんでいる子どもの心です。子どもの心と向き合い、子どもの心を知ろうと努めることが最初にやるべきことなのです。なぜ、このような状態になったのか。その要因はどこにあるのか。何が過剰であり、何が不足していたのか、どこの部分を支援すれば、子どもが人間的な健全成長を遂げることができるのかを考えることです。子ども自身も、なぜ今の状態に陥ったのかがわからないこともよくあります。
不登校・ひきこもりという出来事は、一面から見れば苦という状態ですが、視点を変えれば、親も子どもも一緒に、人間的に成長する、またとない機会を与えてくれたかけがえのない出来事と見ることができます。そのようにひきこもり・不登校という心のありさまを前向きにとらえることができれば、本質的解決の道に入ることができます。
子どもが、どんな状態になっても、子どもをそのまま受け入れ、大事に守っていくという無条件の愛情(注3)を親が持つことができれば、子どもは必ず良い方向に向かっていきます。また、親自らが誠実に子どもの成長を願い行動している姿は、必ず子どもの心に届き、やがて心を開いてゆくようになります。苦悩する子どもにとって、親の真心の愛情に勝る良薬は、この世界にはありません。ユダヤのことわざに「母親は百人の教師に勝る」とあるのはこの意味です。
芝蘭の室を訪れる長期不登校・ひきこもり者は心療内科にかかったものや公的な福祉機関に通所した経歴を持っています。数カ所を巡った人も少なくありません。そのほとんどの人が、改善せず芝蘭の室に来所しています。なぜ、そのようなことになるのでしょうか。
脳の神経伝達物質(セロトニン、ドーパーミン、アドレナリンなど)を標的にする薬では、心の問題を解決することは困難であり、本質的な対処にはなりません。解熱剤ぐらいの一時的効能はあるかもしれませんが、あくまでも一時的な症状緩和であり、本質的解決をもたらしてくれるものではありません。なぜなら、心とは何か、意識とは何かが現在の最先端の脳科学でも解明できていないからです。ただ分かっていることは、心は脳をはじめとした身体を通して、「苦しい、痛い」「気分が悪い、何もする気がしない」などの苦しみの言葉や気分や症状として表現されるということです。その身体の主要な一部の働きを担っているが脳ですが、すべての細胞に心の働き(注4)がみられるのも事実です。だから難解なのです。
心の不調の場合、多くの場合、苦しみは心の炎症から生じています。身体のそれと違って心の傷は見えません。服薬は、依存性を高めたり、副作用による身体の不調を招いたりすることがあります。不登校状態を長引かる結果にもなりかねません。複雑な心を診ることは大変難しいことなのです。心の病は見立てと対処を間違うと悪化するのは、身体の病気の誤診と同じです。ただ心の場合、誤診(注5)していても、曖昧にすることができます。私たちが、慎重に賢明にならないと、心の健康を守ることもできなくなります。
(注3) 無条件の愛情…ヘレンケラーを世界的偉人に育てた陰の支援者はサリバン先生です。目が見えなくなり、三重苦から自暴自棄に荒れ狂うヘレンに対して、彼女は忍耐強く無条件の愛情を持ち続け、終生ヘレンに尽くし、彼女の持つ可能性を開いたとされています。ヘレンの偉業はサリバン先生なくしては成し遂げられなかったと言われています。ヘレンは「私を作ったのはサリバン先生です」とサリバン先生の恩に報いる行動を生涯、貫いたと言われています。
(注4)細胞に心の働き…すべての細胞は振動し、微弱な光を出しています。それをバイオフォトンと学者は名付けています。人間を構成する細胞は約46兆個と言われていますが、その細胞一つ一つが生命現象を演じ、酸素と栄養を取り入れ、新陳代謝し、エネルギーを発し、環境変化に適応し生と死を演じています。奇跡的な働きです。分析できる見える物質を支えているのが見えない働きです。心は関係性で生起するので、とらえることができないと、最先端の量子力学が「量子のもつれ現象」などで、心の不可思議さの一面を分析しています。
(注5) 「誤診」(心の科学、NO164…精神科臨床における誤診、薬物療法偏重と誤診、うつ状態の鑑別診断と誤診、大人の発達障害と誤診などが編集されている) 「精神科臨床はどこへ行く」(心の科学・井原裕編)‥薬を巡る諸問題、治療現場で起きていること、PTSDの乱発―心のケアのいかがわしさなど「ブラック精神医療」(米田倫康著)‥知ってほしい精神医療現場の驚愕の真実
〇筆者の生命哲学研究歴… 広島大学総合科学部(一期生)在学中から、哲学、文学、思想、日本人の行動様式論、生と死の宗教(主としてキリスト教と仏教)、心理学、仏法生命哲学を研究してきました。深層心理学と仏法生命哲学研究歴は50年を超え、ここ10年は量子力学、身体・脳科学と仏法生命科学(中心は法華経)の関係性を重点的に研究しています。学びの旅は今も続いています。
学べば学ぶほど、私は何も知らないことがわかる。自分が無知であると知れば知るほど、よりいっそう学びたくなる…アインシュタイン
人間は正しいことを学び、正しいことを身に付けることによって人間になっていく
動物や植物は自分を変えることはできません。細胞に組み込まれた遺伝子の設計図に従い、生住異滅(注1)の法則に生きているからです。人間だけが自分を変えることができる知的生物です。かつて幼くして山に捨てられ、狼に育てられた二人の少女は、人間に発見された後、牧師に育てられましたが、人間の生き方ができず、下の少女は、数年後に亡くなりました。上の子は比較的長く生きましたが17歳で亡くなったそうです。四足で歩き、スプーンなどが使えず、口でそのまま食べ、夜になると遠吠えするなどの狼の習性はなかなか消えなかったそうです。上の子が身につけた言語は単語表現で、百語以下だったそうです。人間は人間に育てられ、人間の生き方を学ぶことによって、人間になってゆくことを教えてくれた貴重な事例になっています。
自分を変えるには、意識を正しい方向に向けることが重要になります。そのためには、正しい知識を身に付けることが不可欠です。自分を知る、自分の心を知る、自分の体を知る、社会を知る、自然を知るなど、あらゆることを学ぶことによって、正しい意識を持つことができるようになります。生きているとは、意識がある、意識していることの別表現です。よりよく生きるとは、正しい知識の光に照らされた明るい意識で生きることなのです。「勉学は光であり、無学は闇である」とソクラテスは言いました。正しいとは、宇宙の法にのっとっていることです。宇宙の真理の法をブッダは正法と言いました。
正しい意識は、正しい知識によってつくられる
偏った知識、浅薄な知識、虚偽の知識が社会には蔓延しています。悪い知識は人の意識を曇らせ、濁らせます。意識の中心である思考と感情は、悪知識によって偏り、調和を失います。やがて思考力は低下し、判断力は鈍り、善悪が判らなくなってゆきます。さらに、感情は濁り、心身の不調を引き起こし、病んだ心身を作ってゆきます。人間を不幸にする最大の要因は偏頗な悪知識です。
それに対して、人を幸福に導く、偏りのない、深みのある円満な完全な知識を善い知識と言います。善知識は、人を高め、人の心を豊かにし、真実を教え、人を幸福に導く知識のことです。過去の偉人たちは、その善知識を言葉として残しました。例えば、釈迦の多くの仏典(弟子たちが編集)、孔子の論語、ソクラテスの弁明(弟子のプラトン作)、偉人の名言など知の遺産はたくさんあります。人間の賢さは、正しい知識(善知識)を身に付けることで増してゆきます。賢さは幸福になる大事な要素です。第64代総理大臣の田中角栄は「学歴より大事なのは学問である」という名言を残しました。その意(こころ)は、一流大学という学歴の持ち主より、学問することによって正しい知識(善知識)を身に付けた人のほうが、現実社会を生きる賢さを身に付け、価値を生み出す人になるということです。
歴史上、多くの人々の精神を高め幸福に導いた偉人の言葉や思想が善知識にあたります。悪知識は、簡単に言えば、部分で全体を決めつける偏った知識のことです。部分を部分として語り、いかしていくのであれば、それなりの価値を生むので悪知識にはなりません。善知識は光となり、人生を正しく照らしますが、悪知識は闇であり、人を不幸に導くものであると偉人たちは異口同音に語っています。
無知の知…自分が無知であることを知ることの大切さ
アインシュタインは、自分が無知であるからこそ、学びによって、正しい知識を得ることの大切さを自覚しました。ソクラテスの「無知の知」(自分が無知であることを知っている)も全く同じ意味です。正しいことを学び、正しい知識を持つことの大切さを強調しています。意識の二大構成要素は感情と思考です。思考し、正しい知識を身に付けることで感情は安定し、意識は健全になってゆきます。人間は始めから人間ではありません。学ぶことによって人間になってゆくのです。何を学び、何を身に付けるかで人生は大きく変わってゆきます。
自分を変える秘訣は、自分を正しく知ることにある
自分を変えるためには、まず自分を正しく知ることの学びから始めなければいけません。科学は、人間の知性を最大限にいかし、光、電磁波、素粒子などの極微な世界まで探求しました。そして物質世界の一部の法を発見することに成功し、私たちの生活を利益しています。医学も、その恩恵を受け、細胞、神経、ホルモン、脳などの物質の解明が進み、治療法としての解剖学や薬学が大いに発展しました。宇宙や生命に存在する法(注2)の発見は、正しく運用すれば私たちの生活に価値をもたらします。
(注1)「生住異滅」(じょうじゅういめつ)…宇宙に存在する生命は、自分にふさわしい「かたち」を持って生まれます。そして、成長し、一定期間、そのかたちを維持しながら活動し、やがて老い衰え、滅してゆきます。その生死の法は、動物も植物も人間も等しく同じなのです。なぜなら、細胞で構成される生命体の法だからです。細胞は、一つから始まり分化しながら成長と死滅を繰り返し、最後は完全消滅します。それが細胞の法則です。私たち人間も約40兆個の細胞の集まりでできた生命体であり、宇宙の生死の法に貫かれています。
(注2)宇宙や生命に内在するの法…人間社会には憲法や条例や交通法など、人間倫理を守らせるための法がたくさんあります。それは、為政者が国を統治しやすくするために作った仮のものです。戦争になると、国民を戦争に駆り出しやすくする思想統一の法を作ります。かつての日本もそうでした。その一例が1925年制定の治安維持法です。この法は、思想言論の自由を抑圧し、戦争反対者を獄死させたりしました。現代社会でも、ロシアや中国、北朝鮮は人間の自由を抑圧する思想統一を行っています。こうした法とは別に、宇宙を構成する生命現象は諸法で織りなされてい.ます。これは国法と異なり誰人の生命にも潜在する常住の法です。国宝や世間法を逃れたとしても生命の法は逃れることはできません。なぜなら私たちや自然や宇宙の生命そのものの働きだからです。その常住の法を悟った人が約2500年前のインドの人、釈尊(ブッダ)です。その法は、竜樹、天親、そして中国の天台智顗らによって生命の三千諸法として理論化されました。生命の法には、生死不二論、色心不二論、十境界論、一念三千理論、唯識論、空・中観論、十二支縁起論、変毒為薬(宿命転換)論など幾多の深遠な法があります。しかし、物質世界と違って、五感での認識が難しいため難解です。物理学は、物質(色法・しきほう…人間で言えば身体の働き)の一部の法を今日まで解明してきましたが、生命の心法(しんぽう…人間で言えば心の働き)の側面は、ほとんど解明できていません。そのごく一部である十境界論を以下に解説いたします。
心の病を完治させるのは、なぜ難しいのか
物質科学は、心の世界に、ほとんど手付かずです。物質ではない心は分析できず、実験もできないからです。心の病の治療法として、今日まで、精神分析、行動療法、認知療法、認知行動療法、来談者中心療法、マインドフルネスなどの療法が行われてきました。しかし、最も改善率の高い認知行動療法でも、心病む人の50%~60%の改善率と言われています。完治になると、ほとんど患者自らの一種の悟りのようなもので治しているのが現状です。
なぜ治せないのでしょうか。それは神秘ともいえる生命・心が解明できていないからです。身体と心で成り立つ生命そのものが解かっていないからです。科学は、物質を帰納法によって分析しますが、その手法では、心の世界は把握できません。心の世界は、演繹法的直観智しか把握できないのです。見えないが確かに存在し働き動いているのが心の世界です。その動きは、物質のように固定化されていないので、言葉でも実験分析でも把握できないのです。比喩的に述べれば、物質のミクロの姿、素粒子は振動しています。その振動のエネルギーは波として周囲に拡散されます。その波が心ということです。動く波をとらえるのは、その波になりきるしかありません。それが直観であり、覚知です。つまり対象と自分が一体になることによって可能になります。「心の病は最終的に患者自らの悟りのようなもので治した」と先ほど言った意味はそこにあります。
森田療法の創始者、森田正馬は自らの心臓恐怖症・神経症を独力で完治させた
日本で生まれた森田療法は、森田正馬の病んだ心の解決から生まれました。彼は学生時代、心臓恐怖症という神経症に苦しみました。また、強迫観念が、恐怖に追い打ちをかけていたようです。彼は、その苦しみと真正面から対決し、試行錯誤を繰り返す中で、頓悟(急に悟る)し、病を完治させたと述懐しています。その体験を理論化したものが、世界に広がった日本発の森田療法です。森田療法は、一人の心を病んだ人間苦の解決から生まれた悟りであり、直観の賜物だったのです。なぜ、そう断言できるかといえば、私自身も大学生の時に心臓恐怖症・強迫観念による地獄を味わい、独自で完治させた体験を持っているからです。地獄の苦しみと対決する中で、苦の受容が始まり、それが心を浄化させてくれたのです。
直観智に必須のなのが、澄んだ清らかな生命です。生命の鏡が曇れば、曇ったものしか映りません。鏡が澄めば映像が正しく映ります。古代インドでは、生命の真理を悟るために、心の鏡を磨き浄化するためのいろいろな修行法が行われていました。心の濁りは欲望から生じるとして、欲望を断じ尽くす修行が行われました。極端なものもあり、断食を続け、死ぬと悟りに至ったなどという修行もあったと言われています。
心の病は、意識による苦との対決で生命を浄化し、直観智を得ることで完治する
生命の真理を悟った釈迦(悟ったあとはブッダと呼ばれる)も、当時の苦行を10年近く修行したと言われています。「苦に徹すれば珠となる」と文豪の吉川英治は言いました。苦は意識を磨く働きをします。それは苦に対する姿勢で決まります。苦をただ受動的に受けるだけなのか、それとも苦に立ち向かい、解決しようとするのか、後者の姿勢は悟りに向かいます。それが珠になると吉川英治は言ったのです。結論を言いますと、あらゆる心の病は、意識による苦との対決で生命を浄化し、直観智を得ることで治るということです。それが心身科学理論の要諦です。マインドフルネスも直観を磨くことを志向していたと思われます。(直観智に近い言葉に、インスピレーションや閃き・ひらめきがありますが、各種レベルがあります)
最近の素粒子のミクロ世界の超弦理論(すべての素粒子は極小のひもの振動パターンの違いによって生まれる)は、見えない心の解明にヒントを与えてくれています。ここでは、神秘な生命を直観智した2500年前のブッダの生命論をもとに、心身科学理論を展開してゆきます。(ブッダ・釈尊は生命の覚者。覚者は釈尊のほか、天親、竜樹、天台など宇宙には多数存在する) 直観智を磨くためには、アインシュタインが言ったように、あらゆるものを学ぼうとする心、欲望を調整する心、今までの自分を乗り越え、自分を高めていこうとする行動が必須です。
まず、私たちの今の心、生命の状態を正しく理解し、学ぶことが第一歩になります。
私たちは、次の十段階のどれかの位の境界に属している
あなたは、今、どの生命の位にいますか …1、瞋る地獄界 2、貪る餓鬼界 3、保身の畜生界 4、優劣比較の修羅界 5、平穏な人界 6、喜ぶ天界 7、学びの声聞界 8、発明発見の縁覚界 9、抜苦与楽の菩薩界 10、平等大慧の仏界
私たちの生命は、人も植物も動物も以下の10種のどれかの境界に属して今を生きています。その生命状態が持つ固有の周波数と波形の音色を境涯と言います。1から順次、10に向かって生命空間は拡大し、生命力、智慧、慈悲は強く豊かさを増し、安定度も自由度も増していきます。1の地獄界が最低の境界で、10の仏界が最高の境界で智慧と歓喜の世界です。1から6までの境涯は、環境に振り回されやすく、特に1から4の境涯は、対象にマインドコントロールされやすくなります。
多くの人の意識は、6番目の天界を目指しています。その世界に楽しさ、喜び、快適さ、幸福があると思っているからです。6番の境涯を獲得しているように見える総理大臣や大統領や億万長者は、私たちの目には幸せそうに映ります。しかし、生命の位は6番の位置にすぎません。なぜなら、その境涯は、砂上の楼閣であり、安定せず、移ろいゆく仮の位であり、やがて跡形もなく消え去ってゆくものだからです。しかし、多くの人の意識は、その位置に執着し、不幸の原因を作ってゆきます。
鳥や動物も自らの家族や子どもを守るために自分を犠牲にし、中には命さえ捧げる動物もいます。動物の「かたち」をしていますが、その時の生命の位は9番目の菩薩界の高さにあります。人間が、勝手に人とか犬とか鳥とかに分類し名付けているだけです。「かたち」は異なりますが、すべて同じ動物であることには変わりません。他の動物からすれば、犬もカラスも人も同じ動物の一種なのです。果たして、どの生き物が生命の位が高いのか、実のところ判別できません。(かたち…人間、動物、昆虫、細菌、魚、植物などの「かたち」・体は過去世の自らの業・行いの集積が自ら決めるという生命の法則…下欄の阿頼耶識に詳述)
「世界でもっと素晴らしく、最も美しいものは、目で見たり、手で触れたりすることはできません。それは心で感じなければならないのです」とヘレン・ケラが言ったように 「心で感じる」しかわからないようです。植物や果樹は実ったコメや麦や実を他の動物に捧げるという崇高な働きをする9番を演じています。人は他の生物より、知的能力に優れているにすぎません。動物や植物は「感じる」能力は、ある部分では、人間以上のものがあります。ミミズは目も耳も鼻もありません。皮膚で光を感じ、水分を調節し暗い土中で、光を感じて生きています。植物も光の感度は、人間を大きく上回る能力を持っています。家族や種を守ろうとし、命すら犠牲にする、ある種の動物より、人のほうが優れているといえるかどうかは疑問です。人は、鳥のように空も飛べません。しかし知的道具の銃で鳥を撃ち殺すことができます。人が他生物より優れているのは知的可能性だけです。すべての生物は、十境界を平等に持っています。
私たちを含め、この宇宙のすべての存在は、心の奥底で10の仏界の不動の境界を目指し、その方向を向いています。なぜなら、私たちの生命の生まれ故郷であり、母なる安心大地だからです。その境涯の修得こそ崩れない心の豊かさをもたらします。その境涯には、充実があり、強さがあり、賢さがあり、智慧に満ち、無上の宝珠があり、浄化された自由自在な喜びの絶対的幸福があります。それが、私たちを含めた生物の、ありのままの、本来の生命の振動と音律(コラム2)なのです。(ブッダの生命真理の覚知の継承者、天台大師の生命の境界理論を、筆者が現代的に解釈し要約した仏法生命科学論より・コラム3)、
1、地獄界…束縛された不自由な境涯。苦をもたらすものをはねかえせない恨み憎しみ、怒りと破壊の渦巻く境界。強い怒りが自分に向かえば自殺を招くことがあります。 瞋り(怒り)が原因で地下の獄につながれ、不自由となる最低の生命の境地です。怒るほどエネルギーは消耗し、最後は枯渇し、苦をはね返せなくなり、今、活力があっても、徐々に苦を受動的に無限に受ける身となっていきます。うつ病には、意識できない強い瞋りが潜んでいます。 その瞋りは自分を責める自責の炎となり、自らの生命を損傷し、気力を奪います。やがて、苦しみからの解放策として、死が甘美な装いを持って迫ってきます。自殺は、人間知性が生命の魔性・破壊性に乗っ取られた姿です。どんなに苦しくとも、知性を働かせ生き続けなければなりません。苦しみのエネルギーが死後も続き、永遠に続くことを思えば、生きている間に苦しみを乗り越えなければなりません(阿頼耶識を参照にしてください)。地獄界の起こす振動は不規則で、その波形は乱れ、波動は逆流し、破壊攻撃波は最後は自分に向かい生命力を奪い、死に向かいます。怒りという生命の魔性にマインドコントロールされ、自分を見失う境涯です。争い、戦争、破壊の主因は瞋りであり、地獄界がもたらします。 (じごくかい)
2、餓鬼界…貪(むさぼり)・飢渇(きかつ)、執着、自らの欲望の炎(ほのお)に焼かれ、求めても得られない渇(かっ)し、もだえ苦しむ生命境涯です。 貪は貧で、貪るほど貧しくなります。あくなき欲望、身を焦がすような欲望が原因で、地獄に堕ちてゆきます。人は五欲(五つの感覚器官がもたらす快感)に執着します。快は心地よく、ドーパミンという快楽神経伝達物質は、電気信号を通じて、私たちの脳や心身を麻薬のように麻痺させるからです。対象に向かうエネルギーは一時的に高揚し、自他の損傷を招き、破滅に向かいます。金の亡者、人気・地位・名誉・異性に貪著・執着する人は餓鬼の境涯です。恋の奴隷であるストカー殺人の背後に貪欲の執着地獄の炎が見えます。餓鬼界の波動は竜巻に似ています。通りさった後に残るのは、無残にも破壊された残害物です。あくなき欲望にマインドコントロールされる境涯です。各種依存症は、依存対象にマインドコントロールされた状態であり、餓鬼界を中心に、愚かさ、瞋りが原因です。(がきかい)
3、畜生界…癡(おろか)、威張る、愧(はじ)ない心、弱肉強食、強いものに巻かれたり、弱いものをいじめたり、傷つけたり、強いものに殺されたり、弱いものを殺したりする攻撃と恐怖の保身の先を見ない境涯です。何が正しく、何が間違っているかわからなくなり、道理に暗い世界です。残害(ざんがい)の苦を伴います。残害の苦とは殺される恐怖を味わうということです。動物や人は強いものに殺されるとき、この恐怖に震えます。愚かさが原因で恐怖と不安の世界に堕ちます。クレマーの心理もここにあります。相手が自分より強い人にはクレームできません。反撃されることを知っているからです。強い立場・高い立場を利用して下位のものをいじめたり、暴力をふるうのは、この畜生界の癡かさが原因です。目先のことしか見えず、そのとき倫理・道徳観はなく、人間も動物の本性になります。目先の欲望に己を失いマインドコントロールされてゆきます。
私たちの善悪の行為は脳に記憶され、阿頼耶識(注3)に堆積し、悪行が多く積もると、来世は動物や餓鬼や地獄の世界に生まれ罪を償うことになります。これを因果律と言います。賢い人は、動物的生き方をやめ、人界を目指します。因果という道理がわからない者は、来世、動物に生まれることを無意識で希望しているようなもので、こうした生き方がとまりません。動物といってもライオンになるわけではなく、ハエやダニやゴキブリになるかもしれません。閻魔大王が決めるのではなく、すべて自分の生き方が来世の生のかたちを決めます。畜生界の強い人は、先が見えないほどの盲目さなのです。だから、畜生界を癡と言うのです。周波数は乱れ、音色に響きはなく、遅滞し、どんよりした波動を伴っています。各種暴力、パワハラ、いじめ、戦争の原因は畜生界が中心で、貪り、瞋りが原因です。(ちくしょうかい)
(注3)阿頼耶識…天親菩薩(5,6世紀ごろのインドの大乗論者、インドでは釈尊に次ぐ覚者、そのほかに竜樹菩薩がいる)が発見した心の八つの世界を唯識といいます。唯識とは、一切の現象は、ただ識としての心に映し出されたものにすぎず、万法は意識の変貌であり、識以外に存在するものはないということです。五感覚を通して現象を認識する、眼識、耳識、鼻識、舌識、身識の五識。五感覚は外の世界を把握する器官です。五感覚で区別した世界を言葉を通して感覚を鮮明にし、貪著(とんじゃく)するのが六番目の識としての意識です。七番目のマナ識は自我執着識とも思量識とも言われ、愛憎で汚れやすい潜在識で、染汚意(ぜんまい)とも言います。八番目の阿頼耶(アラヤ)識は、記憶の貯蔵庫と言われ、過去の善悪の行為をすべて貯蔵している識とされます。阿頼耶識は自分と他人を区別します。その働きが他生命との差別をつくってゆき苦に染まりやすくなります。私たちの「今」の生命活動は、そのアラヤ識から、マナ識を経て、意識化されます。このアラヤ意識が宿命・宿業を作る、一切の種子識とされ、私たちの次の生命の活動を自動的に産みだします。さらに来世の私たちの生の「かたち」(動物、人間、植物など)を決定すると言います。生命エネルギーは、「かたち」を変えますが、不変です。今の境涯が、来世も続くというのがブッダの悟りです。
以上の三つを三悪道と名付け、人間の苦しみの根本因としています。現代の世界の各地の戦争や紛争をはじめとした惨劇、社会的犯罪などの不幸な現象はこの三悪道から起きるとブッダは慧眼し、警告しました。まさに現実化しています。果たして人間はこの不幸の連鎖を断ち切れるのでしょうか? こうした人間の苦を解決しようと、人間の知性は宗教を作り出し、救いを求めました。宗教は人間苦の解放から生まれたものですが、あくまでも私たちと同じ人間の知性が作った言葉であり知識です。ここを間違えると、不幸は数倍に膨れ上がります。最近の社会的事件を起こした宗教がその事実を物語っています。
言葉や知識や思想・宗教は人の不幸を加速させる危険性を持っています。一例をあげれば、旧約聖書やハムラビ法典の「目には目を」という言葉は、「同害報復」を許す言葉ですが、それが、「殺されたら、殺せ」になり、殺人の連鎖を生みだし、戦争を継続させています。「目には目を」を脳科学から分析すれば、「攻撃には攻撃を」「怒りには怒りを」「憎しみには憎しみを」「恨みには恨みを」になり、その反復は、脳内の電気配線を強化し、瞋り憎しみは心深くに刻まれてゆき、抜けなくなります。そして殺し合いという戦争は激しさを増す結果になってゆきます。そこに人間を超えた神という言葉が登場すると、その行為は正当化され、人間倫理や道徳は神の名のもとに消え去り、地獄絵図が展開されます。その収束は、アルマゲドン(世界の終末に神と悪魔の勢力が最終決戦を行う戦い。新約聖書ヨハネ黙示録)という非科学神話で幕を閉じます。
また宗教・思想が集団化すると必ず腐敗します。どうしても不純物(私利私欲の人間)が混ざり、その不純さが集団内を汚染するからです。これは集団・組織の持つ宿命であり、10種の生命境界を持つ人間にとって、免れることはできません。何を信じるかで幸不幸が決まります。信じる対象の理論と科学的実証性が重要になります。科学性なき言論は詐欺といっても言い過ぎではありません。科学は理論を実験し証明し、現実に価値を生み出し、万人が納得できる形にします。科学は納得という説得力を持つものです。
ニュートン物理学のころから、今日まで、量子力学、素粒子力学などの形而下学・けいじかがく(物質学)が学問の世界を席巻・せっけんしています。その発見発明は人間の現実世界を利益し、価値をもたらしているからです。それに対して、心理学、哲学、宗教など形而上学(けいじじょうがく)は科学性に乏しく遅滞しているように見えます。物質世界は実験証明し法を発見します。形而上学は、現象を現象たらしめているものを把握する世界です。それは直観智による法の発見の手段をとります。
かたちや物質は、見えない働きで成立しています。その見えない働きを智慧と言います。その見えない智慧を悟る働きは、ヘレン・ケラが言う「心で感じること」なのです。それには生命の濁りを浄化することが必須になります。ヘレンは三重苦という想像を絶する苦との戦いの中で、心が浄化され、心で物事を感じることができるようになったのです。濁った生命の鏡には、正しいものが映らないからです。どのように生命の濁りを取り、浄化させるかが幸福になる必須条件です。その方法は先人覚者の、「抜苦与楽」(他者・自己の苦しみを抜き楽を与える修行)の菩薩道を鏡とするしかありません。自他ともの「苦しみを抜く」という苦との対決の中で、生命の浄化が進みます。「逆境は最良の教師なり」(イギリスの政治家、ディズレーリ)「艱難汝を玉にす」とはこのことを言っています。
ブッダは、この宇宙を構成する、すべての法を悟った人と言われています。その悟りの智慧に生きれば価値が生まれます。智慧には、大きくわけて10種あります。10種の境界に応じて発動し、生きる対処力が智慧です。智慧は必ずしも人を導くものではありません。そのときの自分の生命活動の対処力です。犯罪者のような悪知恵、人をだます知恵、殺人機械を作る知恵など智慧もいろいろです。地獄界の智慧が最も光が弱く仏界が最高の光を放ちます。物理学、量子力学の智慧は、8番の縁覚の悟りの光です。アインシュタインの発見を可能にした智慧も8番です。仏の智慧は、仏智といい、宇宙を照らすと言われています。仏法は、宇宙の法と智慧を発見した科学です。それは正しく実践したもの者によって今日まで証明されてきました。しかし、証明者の数が少ないのです。理由は、正法の実践の難しさより、仏法を正しく伝える私利私欲のない清廉潔白な人が少なかったからです。(知恵と智慧の違い…知恵は、すべての対処力を指し低いものから高いものまでを含みます。智慧は、価値を生み出す対処力という意味で使っています)
4、修羅界…いつも人と比較し、人より勝りたいという気持ちに支配されている境涯。傲慢になり、嫉妬に苦しみます。人より優れようとしたり、劣等に苦しんだりする戦々恐々とし、心が揺れ動く不安定な境界です。自分が優れていると思ったり、劣っていると思ったりし、心が安定せず、ものごとを正しく見ることができなくなります。認知が大きく歪んでしまい、心も屈折してゆき、病んだ心を作ってゆきます。現代の競争社会…学歴、成果主義社会の根底にある生命は修羅界です。人と比較し、人に勝とうと思い、心は安定しません。目はいつも外を向き、自分を見つめる心を失いがちです。だから安定できないのです。その振動はぎこちなく、ある時は、鋭く対象に向かうため、無駄なエネルギーを使い、波形は乱れ、屈折します。虚勢を張って、格好よく見せようとしますが、生命の波形は人工的で、本当の美しさはありません。こうした競争社会に疲れ、家に回避しているのが、不登校・ひきこもりの要因の一つになっています。 (しゅらかい)
上記四種の世界を四悪趣(悪へ趣く生命) といい、不幸の原因の境界としています。あらゆる病はこの四つの世界の偏りが原因で起こります。 その偏りを、もとのありのままの姿に調和させ、病を治したのがブッダの仏法生命科学です。釈尊(ブッダ)は医王と呼ばれ、万病を治したと言われています。
5、人界…人間界。平穏、安定した思いやりに満ちた平和な本来の人間の生命状態、海や風の凪(なぎ)のような状態。人に勝とうとするより、自分に負けないように努力する境涯です。振動に、乱れは少なく、穏やかな波動を奏でています。そばにいても安心できる境涯です。常に過去の自分と現在の自分を比べ成長しようとします。人間らしい思い遣りの溢れた世界です。 この境涯を定着させて、生きてゆけば、来世も人間に生まれるとブッダは説いています。(にんかい)
6、天界「満足・充足・喜びの生命」…喜びの深さには三種類の世界(三界・さんがい)があるとされています。次にその三種を説明します。1、欲界・よっかい(五感覚の欲求がが満たされた世界…食べる、飲む、アルコール摂取、ゲーム・ギャンブルをする、寝る、住まい、衣服、性欲、物質、お金、名声、地位、権力など…一時的なもので壊れやすい) 2、色界・しきかい(作曲、絵を描く、文章を書く、科学の発見など学術・芸術の世界…深い充実感をともなう) 3、無色界・むしきかい…精神世界(言葉で思考したり、瞑想したりして、閃(ひらめ)きを得たり、何かを悟ったりする純粋な精神の世界…法悦・ほうえつ)欲界の頂上が魔王(生命の破壊王)の住所とされています。人は天界を目指して生きており、1、2、3の順番で喜びは深くなります。2,3などの世界は、自分に打ち勝つ軌道の先に訪れる世界です。ブッダは「三界は安定できない、まるで火宅のようなものである」と説き、さらに上位にある四境涯(四聖)を目指すことを教えました。(てんかい)
自分を変える道は、四聖の道を歩むことにある
人間はこの六つの世界を縁(対象)によって巡ります。六道輪廻(ろくどうりんね)しているとブッダは説きます。この六つの境界は環境に左右されやすい生命状態で安定できず、幸福になることは難しくなります。 ブッダは安定した世界を目指すため、次の四つの境涯(四聖の境涯)を目指すことを説きます。
7、知の探求者の声聞界…宇宙・生命の法を聴く、宇宙・生命の正しい法を学びます。そして自らの生命の真実を知る努力をします。広く言えば、正しい知識を学び、自分のものにする向学の心、向上する生命です。学生、学者、研究者など。直観知の一つ、慧眼(けいがん)を具えるようになります。 ソクラテス、プラトン、ニーチェ、キルケゴール、ショウペハウアー、マルクス、ベルグソンなどの哲学者などが代表です。(しょうもんかい)
8、法則の閃き発見者の縁覚界…宇宙・生命の法の一部を悟ります。見えない世界や法則を悟る、発見、発明、閃き・ひらめきの世界です。慧眼を具えます。ゲーテ、ベートベン。レオナルドダビィンチ、ニュートン、アインシュタイン、ニコラ・テスラなどが代表的な人たちです。(えんかくかい)
9、慈悲の菩薩界…自他ともの生命を高め慈・いつくしむ慈悲と智慧の振る舞い、自己中心性を克服し生命を大きく飛躍させる崇高な生命です。自他ともの抜苦与楽に生きる人です。人としての憧れの存在です。直観智の一つの法眼を持ちます。ヘレン・ケラ、ナイチンゲール、孔子、イエスキリスト、天親、竜樹などの菩薩などが代表的な人たちです。自分中心のエゴとの真正面の対決、生命の魔性との闘いが求められます。だから、人々は菩薩道を回避してしまいます。結果、仏界に至ることができなくなります。 (ぼさつかい)
10、平等大慧の仏界…生命の真実を悟り永遠性を覚知できる智慧と絶対安心、清らかな生命状態です。自由自在な境地です。生命全体を直感する仏眼を持ちます。六根清浄の果報、常楽我浄の四徳(コラム4)を得て、生きていること自体が楽しくて楽しくて仕方がないという絶対的幸福境涯になります。釈尊、天台大師、伝教大師、日蓮聖人、三世の諸仏などが代表的な人たちです。(ぶっかい)
以上の四つの境界は、生命が安定し、エネルギーに満ち、環境や他者を価値的にリードすることができると言われ、四聖・しせいの境涯と呼び、仏道修行の目標となりました。
生命変革の希望の哲学…十界互具論
法華経以前の教えでは、十界は、固定化された世界観とされていました。地獄の衆生は地獄に生きる、仏は仏の世界を生きるなど差別の世界観を説いたものでした。ところが、法華経では、地獄で苦しみのどん底にある衆生にも仏界があり、仏の中にも地獄界があるという「十界互具論」(それぞれの十界に十界が空の状態で存在する)が展開されます。これによって、すべての衆生も仏になれるという真の平等性が説かれ、また自己変革への可能性が生まれました。これら境界は固定されていないというのが、私たち人間の救いになります。例えば今、苦しく地獄のどん底であっても、縁によって冷静な人間界に変わったり、苦しみが抜けて天界に変わり、さらに苦から学び悟りの境界になることもあります。だから、どんなに苦しくとも希望を持てるのです。生命の十境界論は、希望の哲学であり、太陽の思想なのです。
すべての命(衆生・しゅじょう、人間)は十境界をもち、それらは「空・くう」の状態で存在し、縁・えん(対象)によって起こるという関係性理論です。生命の十境界は固定化されたものではなく、縁(対象)によって起こり、変化してゆきます。どの境界がよく出るのかによって、その人の人間性の品位・ひんい、振る舞いが決まります。意識を磨く修行をすることで境界のレベルを上げることができます。人格を高め、品・ひんのある人(孔子のいう君子)になっていくと論じています。
ブッダは修行によって、仏界(宇宙大の尽きることのない智慧と慈悲と創造性、生命力などを含む無上の宝珠の世界)の絶対的幸福境涯(きょうがい)の定業化・じょうごうか(習慣化)を弟子たちに教えました。現在の量子力学は、縁起という関係性理論を証明していると言われています。
(コラム1)生命の十界論…天台智顗・てんだいちぎ(538年~597年、天台大師のこと。隋の皇帝も帰依し国師となった人)によると、ブッダの究極の法を多面的にとらえ「一念三千論」の生命科学理論を提唱し、像法時代(釈尊滅後1000年から2000年の期間)の仏・ブッダ(生命の真理の覚者)と言われています。すべての人間の生命に等しく十境界は内在し、縁(対象)によって現れると説きます。人間は、今の瞬間に、10境界のどれかを表わしていますが、一定せず絶えず変化(生死を繰り返し空・くうの状態で存在)していると説きます。
(コラム2)生命の振動と音律…この宇宙に存在するすべてのもの、物質、空気、液体などはすべて原子、素粒子で構成されていると物理学は発見しました。その素粒子は振動し音を出し、独自の周波数で波動します(周波数…一秒間に振動する数、単位はHz・ヘルツ)。私たちの脳波は通常、シーター波(4~8Hz、まどろみ時)、アルファ波(8~13Hz、リラックス時)、ベーター波(13~30Hz、活動時)、ガンマ波(30Hz以上、緊張、興奮時)の周波数が中心になっていると言われています。
しかし、それは脳のごく一部のことです。脳波は脳全体の振動ではなく、大脳皮質の一部の振動をとらえたものにすぎません。複雑な脳は、脳細胞の種類だけで、3300種類が最近、発見されています。その代表が、ニューロン(神経細胞)、グリア細胞などです。脳内には、さらに、脳髄液、数兆個あるシナプスの振動など現代科学は、すべてをとらえてはいません。現在の脳波の知見で、心の病を完治させようとすると間違いを起こします。今の脳波は、あくまで一部の事実とみるとき、それを生かすことができます。
周波数が高いと波動も大きくなります。この宇宙で最も周波数が高い存在は、現代量子物理学の発見によると光とされ、400兆Hz(赤外線)から700~800兆Hz(紫外線)と言われ、思考や想像を超えた神がかり的な奇跡の周波数です。私たちは光で生きています。また微細な光を体から出しています。それをバイオフォトンと学者は名付けています。生命は不思議です。
私たちの身体と心は無数の周波数を奏で、瞬間瞬間、秩序を作りながら流れています。ある瞬間、その多数の振動が統合されたものが意識であるといった脳科学者(フリーマン)がいます。苦しみの周波数は一つの形があると推測されますが、音階が同じでも音色が違うように表出された周波数と、その波形は無数になります。それが生物や動物や人間のかたち・相の違いを形成していると思われます。その相も仮に和合されたものであり、絶えず変化しています。この世のすべては仮に和合したものが変化しているにすぎないとブッダは覚知しました。
(コラム3) 心身科学理論…森羅万象、万物、自然、生物、宇宙のあらゆる現象は法で織りなされています。すべての現象をブッダは覚知しました。これまでの科学は、その生命現象の物資的側面の部分部分を原子・素粒子・電磁波などを分析し解析し、その中に法を発見することに成功しました。その発見された法で生活を利益しています。真実の法の発見は価値を生みます。これに対して心の法、生命の法はブッダが覚知、発見したと言われています。科学が発見した法は宇宙・自然・生命現象の部分部分の発見です。そしてそれらの発見を継承し積み上げて、さらに新しい発見につなげてきました。科学は帰納法を基本にしています。ヒポクラテス、ピタゴラス、パスカル、アルキメデス、ガリレオ、コペルニクス、ニュートン、ハイゼンベルグ、アインシュタイン、エジソン、パスツール、ニコラ・テスラなどの数多くの科学者たちは、いずれも宇宙・生命の法則の一部の発見者です。それに対してブッダの発見は宇宙の法の全体、つまり生命の真理の発見と言えます。
ブッダの発見は直観智によるもであり、科学的帰納法に対して、演繹法と言われています。現在の諸科学が徐々にブッダの悟った法の正しさを証明しつつあります。仏法は生命科学です。その法を正しく実践すれば、あらゆる心病は治り、すべての人は、心の自由を獲得し、心の富者となり、崩れない幸福境に至る(衆生所遊楽…生命は本来、今を障りなく、楽しく、自由に「振動」し、生きている)とブッダは断言しました。大事なことは、ブッダの悟った真理の法とは何かということです。ブッダとは宇宙の真理を悟った人のことですが、この宇宙には無数のブッダがいると釈尊(釈迦)は言いました。宇宙真理の法は、言葉で表現できないものですが、比喩としての言葉を使うしか伝えられません。(衆生所遊楽…出典は法華経如来寿量品)
(コラム4)六根清浄の果報…六根とはも眼根、耳根、舌根、鼻根、身根、意根の六つの能力を言います。五つの感覚と意識が浄化されれば、物事の本質がつかめるようになります。例えば眼根清浄を得た人は、人の心が見えるようになり、何が正しく何が間違いかがわかるようになります。見えない部分も見えるようになります。常楽我浄の四徳…常は生命の永遠性が覚知できるようになることです。楽は生きていることが楽しくて仕方がないという境涯になります。我は何があっても不動で揺れない心の強さの持ち主になります。浄は世間の濁りに染まらない清らかさを保てるようになります。
(コラム5)病が起きる六原因…病気は、時代とともに変わってゆきます。それは時代を構成する人間が変わり、社会構造や産業構造が変わるからです。また人間の自然開発の影響も気候変動などをもたらし、新たな病気を産みだします。天台大師は、病を身体病として404病、心病を8万4千病あげていますが、時代の変化の中で、符合しなくなっているものもあります。身体病は難病だけで、現代では既に千種類を超えていると報告されています。心の病の8万4千病は竜樹菩薩も大智度論で論じています。8万4千は私たち人間の一日の一念の数とも言われています。瞬間瞬間起きる念は一日で8万4千念と言われています。心の病は複雑であり、それだけ治療も難しいということです。つまり心の病は無数ともいえる人間の煩悩(生と死のエネルギー)から生じているからです。天台大師の病因論を筆者なりに説明してみます。
1、四大不順 …宇宙を構成する五つの要素…地、水、火、風、空の中の四つ。地は大地で堅性を表し、水は水性を表し、火は熱性を表し、風は流れを表します。人間の臓器や血液、骨格、神経などの構成要素が四大にあたり、その乱れが四大不順になります。例えば、気候の影響による熱中症、凍傷、神経痛などの病気が発生したりすることです。
2、飲食不節 …段食、触食、思食、識食の四種の食行動があります。段食は、飲食の偏り、好きなものの過剰摂取、添加物の害など多くの病気をもたらします。 触食は、身体的接触です。スキンシップなどがこれにあたります。また、五つの感覚器官による外界との接触、耳障り、目障り、肌触りなどがこれに該当します。思食とは、意志力、希望などがこれにあたります。識食とは、意識による分別、判断などがこれにあたります。 これらの四種の不足や過剰が病を引き起こします。
3、座禅不調 …生活リズムの狂いです。深夜遅くまで起きている。運動不足。スマホなど電磁波を多量に浴びるなど、生活習慣の狂いがこれにあたります。
4、鬼神が便りを得る …細菌、ウイルスによる中毒や感染症などです。
5、魔の所為(心の病の中心的なもの) …貪り、愚か、瞋り、等分(貪り、瞋り、愚かが等しく働く)によって引き起こされる病です。虐待、DV、暴言、暴力、人殺し、ストーカー、パワハラ、モラハラ、いじめ、盗撮・強姦などの性逸脱行為、詐欺行為、盗癖、妄想、強迫観念、金の亡者、権力の亡者、ギャンブル・アルコールなど各種依存症などです。 煩悩即菩提の転換の原理で治療が可能です。煩悩という生きるエネルギーは無明そのものです。そのエネルギーを智慧の光で照らし、明るくすることです。菩提とは、無明の生命エネルギーを正しい方向に導く光であり、悟りということです。正法に則ることが直道であり、確実な治療法になります。
6、業が起こる故…業は行為の集積のこと。過去世の行いの報い。過去世の行為の集積が八識の阿頼耶識(前述)に潜在し、今世、その業にふさわしいかたちと環境(中心は親)を得ることによって発動する治療法がない病です。現代医学では治すことができません。科学や医学は、生命を分析できていないからです。生命の直観智の正法に則るしか治療法はないと天台、竜樹、三世の諸仏は語っています。詩読誦瞑想(仏界の周波数に合わせる詩朗読)と抜苦与楽の慈悲の行動で治療が可能になります。その実践は「病即生滅、不老不死」をもたらします。不老不死とは、永遠の生命を感得し、絶対安心の境地である真の健康になるという意味です。
(コラム6) 正法に生きるために…ブッダは八正道を説きました。以下に八正道を説明します。一、正見…正しい見解。 二、正思惟…思考が正しいこと。 三、正語…言葉が正しいこと。四、正業… 行いが正しいこと。五、正命…生活法が正しいこと。六、正精進…修行法の正しいこと。七、正念…観念の正しいこと。八、正定…一切の悪を捨てること。正しいことが大事です。私たちは、何が正しく、何が正しくないのかがわからず迷っているのが現実です。ただ経験からわかることは、正しくないものを信じて行動すれば、行き詰まり、苦しむことになるということです。善は正しく、悪は正しくありません。善は生命を育み、慈しみ、守り、順益します。悪は、その逆で、生命を粗末にし、傷つけ、破壊し、損傷します。善を貫く行為を正義と言います。悪を行うことは易しく、善を行うことは困難を伴います。
正しいことを実践するためは臆病であってはできません。勇気が必要になります。いじめがなくならないのは、傍観者に正義の人がいないからです。いじめという悪を目の前にしても臆病風に吹かれ、間違っていると思いながらも、勇気が出せないからです。それは、悪に負けている証拠です。
善を行うためには、釈尊・覚者の言葉に学ぶしかありません。この宇宙を貫く法(サ・ダルマ・プンダリキャ・ソタラン、漢訳すれば妙法蓮華経)にナム・法ることと釈尊は説いています。宇宙の仏界の周波数のリズムに私たちの個の生命を乗せること(ナム・漢訳で帰命)で、宇宙に満ちている仏界の周波数に私たちの生命が同期(冥合)し、絶対安心境涯に至ると、釈尊は説きました。
〇筆者の生命哲学研究歴… 広島大学総合科学部(一期生)在学中から、天文物理学、哲学、文学、思想、日本人の行動様式論、生と死の宗教(主としてキリスト教と仏教)、心理学、仏法生命哲学を研究してきました。深層心理学と仏法生命哲学研究歴は50年を超え、ここ10年は量子力学、身体科学と仏法生命科学(中心は法華経)の関係性を重点的に研究しています。学びの旅は今も続いています。
「第六感は誰にもあります。それは心の感覚で、見る、聴く、感じることがいっぺんにできます」…ヘレン・ケラ
今とは、私たちの心です。その心に、過去も未来も、病も健康も、自由も不自由も、美も醜も、利も害も、善も悪も、貧も富も、苦も楽もあり、あらゆる環境を包み、智慧に満ち、慈悲の宇宙があります。今とは永遠に存在する私たちの我の流れであり、無量無辺の混沌とした振動であり、調和された周波数の集まりです。今とは森羅三千諸法の智慧の光です。しかし、私たちの意識は、「今」の一部しか感じることができません。なぜなら心は、煩悩で染色され、闇に閉ざされ、不自由になり、智慧の光を享受できないからです。結果、苦は多く、楽は少なくなります。「盲目であることは悲しいことです。けれど目が見えるのに、見ようとしないのは、もっと悲しいことです」(ヘレン・ケラ…「三重苦は世界を照らす」)
ニコラ・テスラは言います。「今、存在しているすべてのものは、光の無限の形象の表現です。なぜならエネルギーは存在より古いからです。そしてエネルギーによって、すべての生命は織りなされたのです。これまで存在したあらゆる人間は死ぬことはありませんでした。なぜなら、今の私たちのエネルギーは永遠だからです」(交流電気発明者、発明家・詩人)
今という私たちの我は、生じるのでもなく、滅するのでもなく無始無終です。 波が上下に運動するように永遠の昔から振動を続け、独自の我の周波数を持ち、波動しています。一つの波が海全体を含んでいるように、今の我の振動は、宇宙全体を呼吸するようにつながり流れています。
今とは、私たちの我のエネルギーの表現です。エネルギーは姿かたちを変えながら永遠を生きます。無量の過去も、無限の未来もすべて今にあります。今の我の苦しみは過去に原因し、未来の楽しさは今をどう生きるかで決まります。生命の因果は俱時であり、苦楽は不二です。それを妙法といいます。因と果は同時に存在し、苦楽は生命の明暗という二つの表現です。
たとえを借りて表現するなら、私たちがこの世に誕生したときの0,2ミリ程度の精卵細胞という種子(因)に、50㌔を超す身体、顔かたち、思考する能力、性格などの果が同時に存在しています。これに対して、物理の現象世界の因果は異時です。因果異時は、時間の流れがあって結果が出るとする考え方です。因果俱時の不思議な一法を諸法実相とブッダは悟りました。その宇宙の真理の法は、今も私たちの我の中に流れ続けています。なぜならブッダの悟る以前から、真理の法は存在し、永遠に今を生き続けるからです。
今を集中して生きるというマインドフルネスが流行している
マインドフルネスの影響もあって、今を集中して生きるという言葉が流行っています。心理学、健康学、企業研修や教育の世界でもマインドフルネスは盛んです。テーマは「今を、評価せず、目的に向かって、集中して生きる」ということです。実践することで、以前より集中力が増したという声はよく耳にします。ポイントは、「今を評価しない」ということです。
これはとても難しいことです。なぜなら私たちは過去の記憶で生きているからです。その記憶は雑念となり、雲のように意識に立ち現われ、自動的に心の流れを支配し、今の生を支えています。また、今の意識は五感覚で受ける多数の情報にさらされ集中できません。この過去の記憶の流れと五感覚が受ける無量の情報が、「今の評価」の正体です。評価せず、集中するとは、これらの意識活動を一旦とめることになります。それは、修行であり、とても至難なことです。マインドフルネスに、修行による修得が求められるゆえんです。よくよく考えてみると、今とは何かが、誰もわかっていませんし、説明できていません。だから、「今を生きる」ことを理解することが困難になります。マインドフルネスの創始者はカバット・ジン氏です。彼は日本で道元の禅を修学されたと言われています。それを基本にしてマインドフルネスを展開されました。しかし、彼は今を深くは掘り下げてはいません。
マインドフルネスはカバット・ジン流の禅の新展開
禅は、不立文字(ふりゅうもんじ)という言葉を金科玉条にし、文字や言葉に頼らず瞑想し、自ら悟りの世界に入るという教えです。つまり、今を過去の言葉で評価せず生きるということです。道元は、もともとブッダの法華経(正確には天台、最澄の法華経)を比叡山で修行しました。しかし、宋に留学し、心身脱落を悟ったことを機に、法華経から離れ独自の禅を展開してゆきます。自分の意識が頼りであり、指標(言葉の評価、記憶)に頼らない瞑想を中心に行いました。今の自分が迷いと暗闇にある場合、指標のない瞑想を行うと迷いを抜けることができないばかりか、迷妄は増すばかりとブッダは警告していました。
ブッダは亡くなる直前に悲嘆にくれる弟子たちに「自ら(自分)と、法を頼りに生きなさい」と語ったそうです。その法はブッダが悟った生命・宇宙の真理であり、法華経で説かれれています。道元は主著「正法眼蔵」という書で彼の思想哲学をまとめていますが、亡くなる直前の日々は法華経の「如来神力品第二十一・にょらいじんりきほん」の一節を読誦し、住まいを「妙法蓮華経庵」と柱に書きつけていたと言われています。道元は最後は、ブッダの根本の法華経を指標にしていたと思われます。カバットジン氏のマインドフルネスは禅を入り口にしていますが、出口は全く異なったものになっていると私は思っています。つまり、独自の禅の展開になっています。
カバット・ジン氏のマインドフルネスは部分と全体のつながりを悟った
カバット・ジン氏のマインドフルネスの卓越性は意識は全体を感知できない、部分しか感覚・思考できないと見抜いたところにあります。その実践は「ボディスキャン(身体観察瞑想)」に結実されています。ボディスキャンの実践で、部分と全体の違い、さらに今、感じるている部分と全体のつながりを悟った点にあります。その洞察は、ストレスの低減を可能にし、心身のリフレッシュをもたらします。彼のマインドフルネスは禅の学びから始まっていますが、独自の展開になっています。その独自性が世界に広まった理由だと考えられます。カバットジン氏の本物のマインドフルネスを学びたい方は、彼の主著「マインドフルネスストレス低減法」を読み、信じて素直に実践すれば修得できます。真意がつかめていないのにわかったように講義している人もいるからです。
20世紀最大の科学者も今を解明していない
アインシュタインは「時間はない、あるのは今だけだ。時間は物質の変化にすぎない」と言ったそうです。私たちが生きているのは今だけだということを彼は言いました。しかし、その今とは何かは説明していません。大科学者にしても、今は究明できなかったのです。今とは私たち生命のことです。今がわかることは、この不思議な生命がわかることと同じことです。
今と意識の関係…哲学者デカルトのとらえた我(われ)が今
今を感じることができるのは意識です。受信した感覚を鋭敏にし、言葉で考え、イメージし、行動に結びつける意識が今の入り口であり、今の一部分ですが、今の全体ではありません。デカルトの「我(われ)思う故に我あり」という言葉は、今考えている意識こそ、真実であるというのことです。それこそが自らの存在を確かにするものであると結論づけました。デカルトの論理的思考は、近代哲学の幕開けと言われています。今は意識の思考で成り立っているといっても、その意識とは何かが未だにわかっていません。わかっているのは、意識は脳を介して起きる心の現象ということだけです。
私たちの意識は1000の1も今をとらえていない
人間の意識できる世界は、わずかであり、意識には多くの障(さわ)りがあります。例えば、私たちの身体を観察しても、今を意識できる身体感覚は1000分の1以下です。身体は無数の細胞(約46兆という説もある)で成り立ち、組織化され意識と関係なく動いています。消化器系、呼吸器系、循環器系、ホルモン、神経、脳、感覚器官などいくつもの組織化された系統があります。痛みや快という刺激が加わったとき、例えば「歯が痛い」と感じれば、その時、歯を意識します、おなかが痛くなると腹部を意識します。食べ物を食べておいしいと感じるとき、味覚を意識します。花を見て、きれいと感じた時、花を味わう心を意識します。また、心はどこからとも起こり、喜んだり、悲しんだり、落ち込んだり、落ち着いたりするなど意識と関係なく生起し流れてゆきます。意識はいつもほんの一部しか感覚したり思考したりすることができません。意識は今の一部しかとらえることができず、心身(生命現象)全体をとらえることはできません。
今という意識の波から、今の生命全体という大海をとらえたブッダ
今の意識から、生命全体を覚知した人が釈尊・ブッダです。生命の真理を悟った人と言われています。ブッダのことを覚者・仏と言います。この宇宙には三世に無数の仏が存在すると釈尊が表現したように、無数のブッダが存在します。今の瞬間の生命に脈打つ法こそ三世の諸仏・ブッダが悟った真実の法です。それを指標に今を生きることで、今の意味が分かるとブッダは語りました。今がわかれば、どんな苦しみも乗り越えられます。また今がわかれば、楽しく生きることができるとブッダは教えてくれています。なぜなら、今は如如・にょにょとして来る「如来」であり、法性だからです。
ブッダがとらえた今は最先端科学の素粒子理論で一部を説明できる
ブッダかとらえた今という生命現象に接近するためには、ブッダの悟りに肉迫するしかありません。ブッダの時代には文字表記はなく、すべて「如是我聞・にょぜがもん」(自分は、このようにブッダの教えを聞いた)という形で後世に伝わりました。ブッダの教えを正しく残すために、ブッダ滅後に数度の経典結集が行われ、500人以上の仏弟子が、ブッダの教法を吟味・精査し正しく残してきました。
その教法は、インドの24人の付法蔵の正師によって1000年近くをかけて継承されてゆきます。そして中国の天台大師、日本の聖徳太子、伝教大師、日蓮聖人らに正しく伝えられてきました。何を継承したのか、それはブッダの志であり、慈悲であり智慧であり、真理の法です。そこに我見はありません。ブッダの核心の法は、「サ・ダルマ・プンダリャキャ、ソタラン=妙法蓮華経」、「空・くう」「12支縁起」『中観…空、仮、中の生命観」「唯識・ゆいしき」「止観・しかん」「一念三千理論」「色心不二」などという生命科学理論を展開してゆきます。その理論を理解すれば「今」が解明できます。それぞれが難解ですが、深層心理学をはるかに凌駕し、最先端の素粒子理論がブッダの理論(空や縁起の理論…観察すると動く、ひも理論など)を一部証明しつつあると言われています。
ブッダが直観智した世界は、事物、物事の言語を超えたありのままの宇宙の諸法です。それは振動であり、周波数であり、音色であり、波動であり、音楽であり、慈悲であり、エネルギーであり、無量の智慧であり、光です。その世界を最先端の科学が今、帰納法を使って仮説し、実験を繰り返し、証明している形になっています。
〇筆者の生命哲学研究歴… 広島大学総合科学部(一期生)在学中から、哲学、文学、思想、日本人の行動様式論、生と死の宗教(主としてキリスト教と仏教)、心理学、仏法生命哲学を研究してきました。深層心理学と仏法生命哲学研究歴は50年を超え、ここ10年は量子力学、身体科学と仏法生命科学(中心は法華経)の関係性を重点的に研究しています。学びの旅は今も続いています。
人は観念を持つ。だが信念の中で生きる。…オルティガ(スペインの哲学者)
わたしたちは 何かを信じることなしには 一瞬も生きていけない
朝起きて顔を洗ったり歯を磨いたりするとき、水に毒が混ざっていると疑うことはありません。水を信じているからです。食べ物を食べるときも疑いなく食べます。食べ物を信じているからです。外を歩く時も、道が突然陥没するなど思いもしません。道を信じているからです。人に会った時も、防衛することなく接します。安全だと信じているからです。空気にサリンが混ざっていると思うと呼吸もできなくなります。私たちは、普段は、対象や環境を疑うことなく受け入れています。信じるとは、対象や環境を受け入れることと言えます。私たちは習慣的に多くのものを疑うことなく、受け入れることで生きていけます。生きるとは、常に何かを信じることで成り立つ営みと言えます。
信じることによって自分と自分を取り巻く環境が一致します。信じるとは、対象を受け入れ、行動することなのです。それを智と言います。信じる対象によって、智のレベルや発動力は変わります。その智の高低によって、幸不幸が決まってゆきます。心身を破壊する悪い言葉や考え方などを受け入れれば、心身が傷つき、不幸になってゆくのは当然の結果です。逆に善いものを信じてゆけば、心身が福に満ち、幸の方向に向かってゆくのは道理と言えます。
言葉は、人を幸福に導いたり、地獄に引き込んだりする力を持っている
昨年は熊の出没で多くの農村地域は不安な生活を余儀なくされました。熊を捕獲するため、食べ物を置き、罠を仕掛け、熊をだまします。また魚は餌にだまされ、釣り針を飲んで捕まります。すべて甘い誘惑で動物をだまします。人間も全く同じです、人間の餌は巧言令色(注)の言葉です。言葉を巧みに使って甘い誘惑を仕掛け、人をだまします。人も快感に弱い動物です。ドーパミンやセロトニンやオキシトシンなどの神経伝達物質とホルモンが甘い言葉から流れ出てきます。
(注)「巧言令色すくないないかな仁」(こうげんれいしょく)孔子の論語の言葉。言葉を巧みに飾り、愛想のよい顔つきをして、うわべだけを取り繕い、こびへつらうことを指します。このような態度の人は仁が少ない、つまり誠実さがないと孔子は見抜いていました。
詐欺やロマンス詐欺が横行しています。言葉の真偽や正誤を見抜くのはとても難しいことです。なぜなら善人も悪人も同じ言葉が使えるからです。例えば「愛しています」という言葉は、愛のない人でも、嘘でも使うことができます。詐欺師も善人も同じ言葉を使います。言葉は、世界共通で平等に誰でも使えます。だから、言葉で人をだますのに資本はいりません。人の心理と言葉の関係を知り、道徳心を捨てれば、だれでも詐欺師になれます。
詐欺師は、人の心を、その方向に向かわせる言葉の魔術師といえます。人の弱みにつけこみ、善人を装おう地獄の回し者です。彼らは、言葉に甘い蜜をつける術を知っています。冷静な目でよく観察してみれば、世の中には詐欺師のような人が、いっぱいいるのがわかります。昔はこのようなことを「人を見たら泥棒と思え」と言ったものです。公僕である政治家にも、人を助けたり守るという名の医師や警察官や宗教家や教師や心理支援者の中にも…。ああ、この世は、やはり末法(注)なのでしょうか…。
(注)末法…釈尊(釈迦)の仏教の効力がなくなる時代と、釈尊自らが予言した世相を表す時代の言葉です。悪人が多く生まれ、世の中が濁り、思想や宗教が乱立し、何が正しく何が誤りかがわからなくなり、名聞名利(名声、人気、利益を得ること)、我慢偏執(自分はすばらしいと思い、謙虚さがなく、自分の偏った考えに執着すること)を隠した偽善の思想・宗教家がはびこる時代とされています。平安時代の終わりから末法に入ったと言われています。今も末法時代です。
言葉は思いをたとえた物質であり AI(人工機械知能)でも使える
言葉は事物をとらえた比喩であり、事物そのものではありません。言葉は心そのものではありません。あくまでも心の比喩です。言葉を使わないと、心の思いやものごとを説明できないからです。動物世界と違って、人間社会では言葉は最重要なものになっています。人間関係、会話は言葉でやり取りされるからです。ひと昔前までは「時は金なり」と言われていましたが、現在は「言葉は金なり」の時代になったようです(笑)。
心やものごとは生きて流れています。心は振動し一定の周波数と音色を持ち波動(参考資料1章末に記載)します。だからAIでも読めないのです。言葉はその波動をいったん止めて、ものごとを表現したものです。固まった物質のようなものです。言葉を使わないと流れ続ける物事も心も説明できないからです。言葉に込められた思いを読まなければ、真意は理解できません。やはり思考することが大事になってきます。
私たちは自分の置かれた状況や心理状態によって、同じ言葉であっても受け止め方が、変わってしまいます。つまり人は置かれた状況で、ものを見たり聞いたり、感じたりすることが変わる存在なのです。例えば、宝くじで3億円が当たれば、その瞬間から、お金に対する考え方が変わり、贅沢三昧になってゆきます。国会議員など社会的地位を得たり、有名になったりすると、自分は偉いと奢(おご)り、同じ人間を下に見たりします。会社が倒産し一文無しになり、すべてを失えば、死ぬことが安楽に見えたりします。詐欺師はそうした心理を利用するかのように、揺れる心につけ込みます。揺れる心は、迷える心となり、思考が麻痺しやすくなり、判断力が鈍り、誤信を招きやすくします。
三つの揺れる心が迷信を招く… 苦しみと怒り 貪欲と焦り 恐怖と不安
もがくような苦しみに陥ると、私たちはその苦しみから一刻も早く脱出しようと冷静さを失い、考えることもせず、目の前にあるものにすがります。「溺れる者は藁(わら)をもつかむ」という心理状態になります。怪しい宗教や善人の仮面をかぶった悪人が、人の弱みに付け込み歓心を得るのは、この心理を利用しているからです。また欲に走りすぎると冷静さを失い、イソップ物語に出てくる「欲張りな犬」(注a)のように、今あるものもすべて失うようになります。詐欺に遭う人の一部に見られます。また恐怖状況や不安が強くなると、人は危機感を感じ、根拠のないものを信じてしまいます。オレオレ詐欺被害や関東大震災時に起きたデマ報道(注b)に見る、あおられた恐怖心によって、多くの人が犠牲になりました。
50年後には AIロボットに支配されているかもしれない人間
私たちは、苦しみや怒りが強いとき、強欲になり焦ったとき、さらに恐怖や不安が強くなったとき、間違ったものに騙されやすい思考麻痺の心理状態になっていることを知ることが大事です。テレビやSNSなどを使った情報(AI情報)にも、こうした三つの心理状態を巧みに利用した言葉が飛び交っています。これらは、すべて刺激的な蜜をつけた言葉や魅惑のイメージを伴い神経(電気)信号を伝わって、私たちの脳内のシナプス配線を組み換えます。神経伝達物質のドーパミン、セロトニン、アドレナリンなどを放出し、私たちをその気にさせます。まるで酒を飲んだり、麻薬を摂取したように…。このままいくと、50年後には人間はAIロボットに支配されているかもしれません、かつて大ヒットしたサルの惑星のように…。
(注a)「欲張りな犬・肉をくわえた犬」…ある犬が大きな肉を手に入れ、橋を渡って家に帰ろうとしていました。橋の上から下をのぞくと、きれいな水面に、自分の姿が映りました。犬は水面に映った自分自身の姿を他の犬の姿と勘違いします。しかもその犬がくわえている肉は、自分の肉よりも、もっと大きくおいしそうに見えたのです。犬はそれが欲しくなり、水面の犬に向かって吠えかかりました。その瞬間、口から肉を落としてしまい、くわえていた肉も水面の肉も二つとも失ってしまいました。
(注b)関東大震災時に起きたデマ報道…1923年に起きた関東大震災時、人々は極度の不安と恐怖にさらされていました。そんな折、「朝鮮人の暴動が始まった」「井戸の中に毒を入れられた」(当時、水は井戸を使っていた)などのデマが広がりました。新聞社もそれを報道し、罪なき多くの朝鮮人が殺されるなどの悲劇が起きました。
すべての言葉や宗教や科学やSNSは 私たちと同じ人間がつくったもの
信じることが生きる上で最も大事な行為の一つであることは理解できたと思います。信じる対象を形にし、わかりやすくしたものが、言葉であり、映像であり、シンボル(イメージ像)です。それらが体系化されたものが書物となり、文学になり、思想・哲学となり、宗教になりました。すべて人間がつくった言葉の集まりであり、考え方でありシンボルです。キリスト教のイエスやマリア像はシンボルの象徴であり、誰かが作ったものです。日本の各種仏像も巧みな技師が作ったシンボルです。神社は「学問の神」「縁結びの神」「金儲けの神」など科学的裏付けのない言葉で巧みに装飾し、シンボル化し、迷える人を引き寄せています。いずれも知恵のある人が作ったものです。聖書も伝道師が語ったものを「○○伝」などと編集し、伝道師がまとめたものです。
仏教の経典は、釈尊・ブッダが悟った真理の法を40年にわたって説いた言葉の集まりです。それを、経典結集として約五百人の修行者たちが100年単位で数度にわたって、「如是我聞・にょぜがもん」(私はブッダの言葉をこのように聞いた)と討議しながら・真実をまとめたものです。その意味では、仏教経典には、500人以上の客観的思考が大成されたものであり、一番科学的と言えます。さらに、ブッダの真実の法(法華経)は24人の付法蔵の正師によって正しく伝えられ、中国、百済を経て日本に入りました。日本では、聖徳太子が最初に法華経を護持したと言われています。
いずれも私たちと同じ人間、その中でも特に知に優れた人たちが作ったものです。すべて自分と同じ人間が作ったという考え方には、人間のもつ平等の可能性が込められています。人間を超えた存在を作ってしまうと、人はその存在に依存したり、すがったりし、自ら運命に立ち向かうことをしない弱い人間を作ってゆきます。他力本願では、人は変わることはできません。逆に、自分の中に可能性があることを信じれば、自らの力で、自分を高みにあげ、自己実現が可能になってゆきます。
意志あるところに道あり
自分の中にすべてを作り出す可能性があると信じる心…心の太陽が、いつも輝いていると信じることは、自己開発の大いなる力になります。ソクラテス、ルソー、ベルグソンなどの哲学者、ゲーテ、シラーやホイットマンなどの詩人、ガンジーやキング博士などの人道主義者、アインシュタイン、ニコラ・テスラなどの科学者たちは、心の太陽の存在を強く信じ、現実に心に太陽を輝かせ、躍動の人生を生き抜きました。因果…原因も結果もすべて自分の中にあります。つまり自分の決意と行動という原因で、すべての結果が決まることになります。このことを「意志あるところに道あり」とエイブラハム・リンカーンは言いました。
信じる対象が正しいかどうかは 科学性、実証性を見れば判断できる
科学は見えない物理世界を対象にし、そこに法則を発見します。天文学、ニュートン力学、光の波と粒子説、量子力学など、見出した法則が真理なら、その法則を活用すれば結果が出ます。私たちの生活に電気やガスや光、建物、各種電気製品、食品、各種産業や工場生産物、パソコン、スマホ、すべて物理科学の発見とその活用によってもたらされる利益です。見えない生命現象の物理的側面の働き(法)を発見したものが科学であり、私たちの生活を潤してくれています。
「初めに言葉ありき」は真実なのか…
他方、見えない心の働きを言葉やシンボルにしたものが思想であり、宗教や文学や各種の学です。宗教の開祖は見えない世界のなにものかに、啓示(インスピレーション・ひらめき)を受けたなどと言います。客観的に言えば、その人のある時のイメージやひらめきを言葉にしたものにすぎません。聖書の中の有名な一節「初めに言葉(ロゴス)ありき」(ヨハネ伝)があります。科学的に言うなら、「初めに言葉では表現できない不思議な世界の働きを私は感じた。人智を超えた不思議な働きであり、神と名付けるしか表現できない」というべきでしょう。ヨハネという一伝道者が作った言葉が、他の伝道者に継承され、進化を遂げ、キリスト教の神となり、この世界の創造主となり、人々や世界が醸し出す世音・世情を巧みに取り入れ、アダムとイブやアルマゲドンなどの話を作ってゆきます。
すべて人間が作った言葉であり、言葉で語られた物語であり、思想という言葉の集まりです。それが一つの権威になっていくのが宗教・思想や専門家が語る言葉を集めたものです。ニーチェは「ツラトゥーストラ」という名著の中で、主人公に「神は死んだ」と叫ばせています。また、アインシュタインは「何も考えず権威を敬うことは真実に対する最大の敵である」と語っています。科学性の吟味が不幸行きの防波堤になります。
多くの新興宗教・SNSは科学的分析智の前に 幼稚さを さらけ出してしまう
日本の新興宗教の多くは、一人の人間のインスピレーションやひらめきによって成立しています。こうした宗教は科学的分析にもろくも馬脚を現します。つまり科学的実証性が乏しいということです。科学は、見えない物理現象の法を仮説し、実験し、その法の正しいことを証明します。多くの科学者は一生をかけて地道に研究を続け、何十年もかけて、一つの法則を追究します。発見できればノーベル賞に近づきます。それを現実生活の中で運用し、正しさを証明しています。
一方宗教は、見えない心の世界の法を推測し、ある日ある時のひらめきをもとに教えを説きます。運よく時流に乗ればどんどん広まってゆきます。新興宗教の開祖で、何十年も見えない心の世界を追究していたという人を、私は聞いたことがありません。この点を比較しても科学者とは雲泥の差です。それらの宗教の多くは、利益があると言って人の欲に入りこみます。そして、いったん信じた人を、罰という恐怖で拘束し、逃げられないようにします。人の欲と恐怖と苦しみと無知を利用しています。
あめとむちの法則を上手に使っています。人は飴(あめ)という快に弱く、鞭(むち)という苦痛・恐怖で行動が制止されるという本能を持っているからです。彼らは根拠のない言葉を、さももったいぶって真理であるかのように使い、迷える人を虜にしてゆきます。その意味では詐欺師と似ています。これは宗教だけの世界ではなく、今は、専門家が使う言葉、SNSやユーチューブから拡散される言葉も同じです。現代の新興宗教はSNSと言えます。悲しいことですが、多くの人がその甘い言葉のクモの巣のような網にひかかっているのが現状です。すべて、言葉の魔力のなせる技です。
インスピレーションは誰にでも訪れるもの
ひらめきやインスピレーションは、長く人生を生きていれば、誰でも一度は感じるものです。私は12歳のとき、自分の存在に対してのインスピレーション(前世の自分という我と、今世の自分という我の同一性、我は永遠に死なない)を感じました。その体験は今でも鮮烈に心の中に存在し、そのインスピレーションを生涯をかけて追究し科学しています。現在は、朝に生命現象や心についてのひらめきが訪れ、そのひらめきを言葉にしてこのようなブログを書いています。
死ぬことを勧め、900人以上の人が集団自殺した宗教が1970年代にアメリカで存在していた
大事なことはその言葉の集まり・宗教・思想に科学性があるかどうか、高い論理性や実証性があるかどうかが問題になります。かつて社会を賑わせた新興宗教を信じた人たちの末路がそれを物語っています。この世は苦であり、汚れた世界だとしてユートピアを目指し、自殺を勧めた宗教もありました。1973年、アメリカでキリスト教系新興宗教団体「人民寺院」の信者900人以上が、青酸カリ入りのジュースなどを飲んで集団自殺し、世界に激震が走りました。私も新聞でその記事を読み、宗教の恐ろしさに戦慄した一人です。その中には幼い子どもも含まれていたそうで、想像するだけで胸が締め付けられます。アインシュタインは生まれながらキリスト教の神を信じていましたが、ダーウィンの進化論を読んで、キリスト教の教義に疑惑をもち、スピノザの提唱した汎神論(注1)を信じたと述懐しています。
(注1)汎神論…スピノザの汎神論は、「神即自然 (Deus sive Natura)」という言葉に集約される思想で、神と自然・宇宙が同一であり、神は人格的存在ではなく、万物がすべて神の属性として必然的に存在するという考え方です。これは、神が世界を超越するのではなく、世界そのものの中に内在しているとするもので、すべての事象は神の無限の属性から必然的に生じるとされます。 万物や人間の中に仏性(創造、智慧、慈悲の性分)という働きを悟ったブッダの思想と近似しています。
私たちは、信じることなしに一瞬も生きていくことはできません。私たちにできることは、何を信じるかという選択があるだけです。信じる対象が利益をもたらすものなのか、不利益になるのか、幸福につながるのか、不幸をもたらすものなのか見きわめ、選択することだけなのです。思想・宗教はとくに見極めないと危険性をはらんでいます。カール・マルクスは、そのことを「宗教は民衆のアヘン」(注2)と批判しました。
(注2)「宗教は民衆のアヘン」…カール・マルクスの「ヘーゲル法哲学批判序説」の一節。すべての宗教をアヘンと言ったのではなく、当時のキリスト教社会を見て批判した言葉です。苦しい現実を忘れるように神を信じ、神に身をゆだね、何ら考えることもなく、現状を変えることもしない無気力状態の人間を作る思想宗教をアヘンと言いました。マルクスの思想は、後にマルクス・レーニン主義に使われ、共産主義の根本思想になりましたが、マルクス思想が正しく展開されているとは思えません。現在の中国や北朝鮮の共産主義思想は権力者が国家支配の道具に使っているように思えます。
心に太陽を持て
心に太陽があるかどうか、それは比喩です。心の持つ可能性をたとえたものです。有名な言葉で「心に太陽を持て」(ドイツの詩人、シェザール、山本有三訳)があります。日本の鎌倉時代の仏道修行者、連長は、法華経を宣揚し、立宗宣言を機に、日蓮と改名しました。日は太陽を指し、連は幸福になる本当の因ということであり、心に太陽を昇らせるという意味にもなります。日蓮の法華経は太陽の宗教(参考資料欄2に詳述)と言われています。
この太陽は比喩的表現ですが、それを信じて人生がよくなり、明るく前向きに生きるようになり、幸せになっていければ、立派な実証性を持つ言葉と言えます。今日まで、心の太陽という人間の可能性を信じて多くの人が人生を前向きに生きるようになりました。私もその一人です。この言葉には実証性があると言えます。多くの自然は比喩を使って私たちを覚醒させてくれます。心が浄化されれば、自然現象の比喩が悟れるようになります。自然は慈悲と智慧の宝庫だからです。私たちも自然の一部であることを忘れてはなりません。
人間の苦しみは 言葉を知ることから深まった
人間は自然のうちで最も弱い一本の葦(あし)にすぎない しかし、それは考える葦である(注3)
苦しさを感じ、生きるか死ぬかなどと考えるのは、言葉を持つ人間だけです。動物も植物もそのようなことは考えません。例えば事故などで脳の大脳皮質の思考野などを損傷すれば、生きる苦しさなど考える思考が活動しなくなり、植物的生命状態で生き抜くことになります。その場合、人は動物的生に近くなります。動物は、情動反応としての意識はありますが、思考することはほとんどなく、快・不快の本能的反応が中心です。しかし、人間は、不快や恐怖や苦を言葉によって増幅させ、反復させ、いたずらに苦しみます。自分が自分の嫌な言葉を受け入れ信じてしまっているからです。
(注3)葦(あし)…水辺に生える植物で風に弱く、容易に倒れてしまうことから、人間の肉体的弱さやもろさを象徴しています。しかし、人間は、他の動物にはない思考力を持つため、自分の弱さを自覚し、宇宙の大きさを認識し、死を意識することができる、という点が強調された哲学者パスカルの名言です。
自分が自分であると意識できるは記憶の働き
「われ思うゆえに我あり」とデカルトは言いました。思考し、それらを意識するために、自分は自分だと確認できます。考えることで、人間だけが自己認識できるのです。しかし、考えるために、人間は悩みと苦しみを引き受けることになりました。反面、思考することで人間は進歩発展し、物質的に豊かな生活を送ることができるようになりました。思考するという人間に与えられた特権をどう使うかが重要になります。思考は言葉によってなされます。
言葉は過去の記憶化された知識ですが、言葉には心の思いとしての感情が伴います。それはAIにはない人間独自のものです。苦と感じるのは、知識・言葉よりも、それと一緒に生起する感情です。正確に言えば感受反応(感情と表現している)を言葉で置き換えることによって、その感覚が鮮明化されます。AIには感情はありません。正確な電気信号による言葉があるだけです。苦からの解放は、感受したものを、どのように流すかにかかっています。人間は思考する感情の動物です。波のように生まれた感情のエネルギーは、他のエネルギーに転換されてゆくのを待つしかありません。それは、今の感情に支配されている意識を他の対象に置き換えることで可能になります。マインドフルネス(付録1)は、このことの修得を教えてくれています。
意識の転換とはエネルギーが向かう対象を意識的に替えることです。例えば、怒ったとき、対象から距離を取ることで、怒りを緩和させることは、よく知られています。しかし、対象を替えても、エネルギーのもつ余波はすぐに変わるわけではありません。視覚に残像が残るように、五感覚で感受したものの余情や余韻が自然に消えることを待たなければなりません。一度起きた湖面の波が消えるのを待つしかないのです。 それを感情の受容と言います。
強い刺激は 頭の中を 巡り 苦を強める
強い刺激とは、前述した本能行動と関係しています。一番強い刺激は、自らの身が危機に瀕する時に生じる、恐怖と怒りです。恐怖場面に出遭ったとき、人も動物も、逃走か闘争かの二者択一を迫られます。闘争の場合は、対象に対して激しい攻撃的怒りを発します。逃走の場合は恐怖に支配されます。その恐怖感は深く心に刻まれます。闘争の場合も攻撃感情としての瞋り(いかり)が心に残ります。そして、何かあるたびに心に浮かびあがり、自らを苦しめます。その心的状態をトラウマ(心的外傷)と表現することもあります。
この繰り返しが頭の中で起きる現象を反芻(はんすう)思考・ぐるぐる思考と呼んだりします。心を病んでいる人に多く見られる心の働きです。また、強い刺激には快刺激も含まれます。刺激に伴う快感の強さは心に深く刻まれ、やはり頭の中を巡り、何かに触れて思い起こされ、行為を繰り返します。いわゆる依存症です。アルコール、ギャンブル、性的なもの、ゲームやスマホ依存などが加速し、世の中の多くの人たちが依存症になっていると言われています。それは世の中に快適刺激が満ち溢れているからです。人間は快を求め不快を避ける動物であることを忘れると、心身のバランスを失い病んでゆきます。
ぐるぐる思考は、記憶の働きがある限り、だれしもが経験するものです。ただ、その思考のため生活に不自由を感じ、頭の中を常に巡り、頭から離れない思考を病的思考と呼んでいます。侵入思考、自動思考、強迫観念とも重なる心的働きです。それは、ある時のある出来事が記憶され、反復することにより強化され、その記憶が無意識層に潜在、堆積されているからです。そこから 波のように何気に起きてきます。制御が難しいため苦しみます。
しかし、忘れてはいけないことは、「やけどした子が火を恐れるようになる」とあるように、恐怖体験は身を守るための自己防衛本能の働きであるということです。苦は向き合い方によって、人間を大きく成長させてくれるかけがえのない薬になるということです。「苦に徹すれば珠になる」とは文豪、吉川英治の言葉です。また、逆境こそ教師と言った偉人もいます。
生きることは空模様に似ている 雨の日もあれば晴れの日もある
生き続けていれば、よいことにも出遭えます。人生は空模様と似ています。いつも晴れではありません。雨や雪そして嵐であっても、いつまでも続きません。台風も一週間もすれば通り過ぎます。暗雲が垂れ込め重苦しい空模様の日でも、雲のかなたには太陽はいつも輝いています。目で見えなくとも、心を働かせば輝いている太陽を描くことができます。同じように、どんな辛い苦しみも、いつまでも続きません。空模様と同じです。そして見えなくとも心には、いつも太陽という無限の可能性が存在しています。空のたとえが教えてくれるものを信じて、今を耐え、今日を生きるようにします。今日、しなければいけないことをします。今をとにかく生きます。そうすれば空模様が一定でないように、心模様も変わっていきます。だから、人は生きていけるのです。「冬来りなば 春 遠からじ」(ドイツの詩人シラーの言葉) 冬は苦を象徴し、春は希望であり、楽を表しています。
筆者の苦しみ多き青少年期
楽しいことより苦しいこと、辛いことのほうが多いのが人生の真実です。生きる、それは苦しみとの闘いです。なぜなら、生きることは常に新しい出来事・変化を経験することだからです。新しい経験であるため、うまくいかないことは当然なのです。うまくいかないと人は苦しさを感じます。私の過去を例に話してみます。六歳で母親と死別しました。兄弟7人、10年の間に7人ですから、ほとんど年子状態です。父親は寂しさのためか、酒浸りとなり家に帰って来ず、子どもを放置した状態でした。私は小学3年から5年生の3年間、全く学校に行っていません。2歳年下の弟と食べ物を求め野山や畑や商店街などを放浪する乞食同様の生活を余儀なくされました。家には、布団がない、服がない、電気がない、年上の人たちからの暴力やいじめ、暴言、罵倒されたり、地域の人から厄介視されたりしました。
私が11歳になったころ、私たち男兄弟4人は、児童養護施設に収容されます。今と違ってその施設は、弱肉強食がものをいう動物的な世界で、いじめは日常茶飯事でした。私がそこで学んだのは「力こそ正義」というものでした。私はひそかに身体を鍛え腕力と知識を身につけました。児童に自由はほとんどなく、食べ物も粗食、量り飯、休みの日は奉仕作業という名のもとの強制労働です。職員も児童に平気で暴力をふるっていました。現代の刑務所より劣悪環境で、地獄そのものでした。多くの児童の心は歪んでいったようです。中学3年生の始めの頃に、親父に引き取られ叔母の家に同居しました。思春期、青年期になると、私は自暴自棄になり横道にそれたり、自分の弱さや劣等を隠すために、高校では規律違反し、習得した空手技を使い、虚勢を張って生き、バイクで暴走し、同級生や教師からも一目置かれる学年一番の不良になっていました。心は空虚で満たされず、ますます反社会的行動に走ってしまい、最後は規律をめぐって教師と衝突し、3年になった四月に高校を退学しました。
身寄りのない東京に出て、昼間働きながら夜間の高校に編入しました。19歳の頃、人生の善き先輩と出会い、正しい人生、生き方に徐々に目覚め、生き方の方向がかわってゆきました。自活しながらの浪人・学生時代は、生きるとは何かなど、勉強はそっちのけで、心、生命などを哲学しました。やがて、正しい思想哲学に出遭い、人の道を歩むようになっていました。(拙著「失敗もいいものだよ」自伝的小説から)
苦悩の先に楽しさや喜びが訪れる
今日まで多くの苦しみに向き合い、生き抜くたびに楽しさを感じることもありました。苦を乗り越えた先に、人生の喜びを味わいました。だから生き続けてこれたのかもしれません。しかし、その楽しさもつかの間、また苦が訪れます。その繰り返しですが、苦を乗り越えてゆく度に、心が強くなり賢くなったのも事実です。そして、いつの間にか、苦しみの日々より、平穏な日が増えたような気がします。それは私自身の生き方が変った結果だと気づきました。生きる、それは苦楽であるということを先人は、「苦あれば楽あり、楽あれば苦あり」と訓えてくれています。それが、私たちの人生であり、生命の真実のありようかもしれません。
生きることは闘い 闘わないと滅びる
生きる…それは闘いです。逃走か闘争か、それが動物種としての人間の本質です。動物は、子どもに生き抜く方法を教えるために、わが子を千仭の谷に突き落としたりして、生き抜くことを体に記憶させます。人間は、子どもの頃は親に保護されているので、あまり考えることはありませんが、一人前の大人に近づくにつれ、生きることを考えていくようになります。そして必然的に闘いの世界に投げ出されます。闘わないと滅びるしかありません。それが生きるということの真実です。善いとか悪いとかの問題ではなく、真実ですから、自分の生命を、どう生きていくかが大事になります。闘いに勝つ、つまり自分に負けないということで生き抜いていけます。それには正しい信念が必要です。
心の中の希望の太陽を信じ続けること
負けない自分を作るためには、何よりも自分の可能性をあきらめず、信じ続けることです。私たちの心の中には無限の希望、光、創造性、智慧(付録2)を持つ太陽が存在します。その見えない太陽を念じ信じ続けることです。
そのうえで正しい信念、目標、勇気、忍耐、行動、そして希望が必要です。何よりも「正しい」ということが大事です。例えば、強盗する勇気とか、人を殺す勇気とかは動物的勇気であり、人間の道に背いているため間違った勇気になります。お金持ちになりたいと言うのは正しい目標とは言えません。お金持ちになって、恵まれない人たちの役に立ちたいというのは正しい目標です。正しさの基準は、自分だけが潤うのではなく、自分も他人も潤っていく、つまり、自他共存共栄の思想が正しい生き方の意味です。そのためには、正しい知識・思想が必要です。そうした生き方を模索したのが、過去の思想家であり哲学者であり、宗教家でした。そしてその道を極めたとされているの人たちを、聖人(注3)と呼んでいます。
注3、聖人…一般的には世界の主要な宗教や哲学の開祖を指し、孔子、釈迦、イエス・キリスト、ソクラテスの4人を指します。彼らはそれぞれの時代や地域で人々を導く教えを説き、人類の文化や思想に多大な影響を与え続けています。
付録1…マインドフルネス
「今を集中して目的に向かって評価せず生きる」ということ。マインドフルネスの創始者はカバット・ジン氏です。彼は日本で道元の禅を修学されたと言われています。それを基本にしてマインドフルネスを展開されました。禅は、不立文字(ふりゅうもんじ)という言葉を大事にし、文字や言葉に頼らず瞑想し、自ら悟りの世界に入るという教えです。もともとブッダの法華経(正確には天台、最澄の法華経)を比叡山で修行した道元でしたが、入唐後、法華経から離れてゆき、独自の教えを展開してゆきました。指標に頼らない瞑想を中心に行いました。
「今」の自分が迷いと暗闇にある場合、指標のない瞑想を行うと迷いを抜けることができなるばかりか、迷妄は増すばかりとブッダは警告していました。ブッダは亡くなる直前に悲嘆にくれる弟子たちに「自ら(自分)と、法を頼りに生きなさい」と語ったそうです。その法はブッダが悟った生命・宇宙の真実の法であり、法華経(妙法蓮華経)そのものです。道元は主著「正法眼蔵」という書で彼の思想哲学をまとめていますが、亡くなる直前の日々は法華経の「如来神力品・にょらいじんりきほん」の一節を読誦し、住まいを「妙法蓮華経庵」と柱に書きつけていたと言われています。道元は最後、ブッダの根本の法華経を指標にし死を迎えたと思われます。
人間の意識できる世界はわずかです。例えば、私たちの身体を観察しても、「今」を意識できる身体感覚は1000分の1以下です。身体は無数の細胞で成り立ち、組織化され意識と関係なく動いています。消化器系、呼吸器系、循環器系、ホルモン、神経、脳、感覚器官などいくつもの組織化された系統があります。痛みや快という刺激が加わったとき、例えば「歯が痛い」と感じれば、その時、歯を意識します、おなかが痛くなると腹部を意識します。食べ物を食べておいしいと感じるとき、味覚を意識します。花を見て、きれいと感じた時、花を味わう心を意識します。また、心はどこからとも起こり、喜んだり、悲しんだり、落ち込んだり、落ち着いたりするなど意識と関係なく生起し流れてゆきます。意識はいつもほんの一部しか感覚したり思考したりすることができません。意識は「今」の一部しかとらえることができず、全体は感知できないのです。
カバット・ジン氏のマインドフルネスの卓越性は意識は全体を感知できない、部分しか感覚・思考できないと見抜いたところにあります。その実践は「ボディスキャン(身体観察瞑想)」に結実されています。ボディスキャンの実践で、部分と全体の違い、さらに部分と全体のつながりを悟った点にあります。その洞察は、ストレスの低減を可能にし、心身のリフレッシュをもたらします。彼のマインドフルネスは禅の学びから始まっていますが、独自の展開になっています。その独自性が世界に広まった理由だと考えられます。カバットジン氏の本物のマインドフルネスを学びたい方は、彼の主著「マインドフルネスストレス低減法」を読み、素直に実践すれば修得できます。
(付録2)…智慧…知識は過去であり固定化された物質的なものです。脳内の記憶の蔵に収まっている本のようなものです。いくら知識量が多くても変化し流れゆく現実の問題を解決する力にはなりません。学歴が社会で役に立たないと言われるのは、そこに原因があります。ですが、知識は物事の解決に必要であること間違いありません。問題を解決する場合の選択肢になるからです。
智慧は現実解決の力であり、柔軟性があります。問題解決力、対処力、処理力と言えます。現実の壁を乗り越える力であり、困難を超える力であり、人生を生き抜く力が智慧なのです。臨機応援の対処力が智慧です。ハウトゥーものは、あくまで知識ですから、実際の役に立たないことが多いのは、ここに原因があります。人間関係力は智慧によります。
知識より大事なものが智慧になります。それは現実生活の体験の中で知識を使い続ける経験と自省の中で身につくものです。自分や他人を高める有益な習慣力は智慧の結晶とも言えます。名門大学を出ても智慧のない人はたくさんいます。また中学卒の人の中にも豊富な智慧を持つ人はたくさんいます。人生で大事なものは知識より智慧であり、最も偉大な智慧は慈悲(他者の苦しみを抜き楽を与える行為)から生まれるとブッダは言いました。智慧は伝達できません、師・先生の下で修業し体得するしかないのです。仏道、芸術、武道、茶道、華道など各種の道、職人技の世界のように…。
(参考資料1) 心は振動し一定の周波数と音色を持ち波動する
周波数…一秒間に振動する数、単位はHz(ヘルツ)、私たちの脳波は通常、シーター波(4~8Hz、まどろみ時)、アルファ波(8~13Hz、リラックス時)、ベーター波(13~30Hz、活動時)、ガンマ波(30Hz以上、緊張、興奮時)の周波数が中心になっていると言われています。癒しの周波数は、528Hzと言われ、リラックス効果やDNAの修復が期待される奇跡の周波数という学者もいます。また432Hzは、自然の周波数や宇宙の響きと呼ばれ、心を落ち着かせ、感情を穏やかにする効果があるという学者もいます。人間が耳で聞くことができる周波数の範囲は、20~2万Hzと言われ、出せる音は80~1100Hzと言われています。ちなみに蝙蝠は10万Hzの音が聞き分けられる音の超能力動物です。波動は振動を伝えるエネルギーです。
周波数が高いと波動も大きくなります。この宇宙で最も周波数が高い存在は、現代量子物理学の発見によると光とされ、400兆Hz(赤外線)から700~800兆Hz(紫外線)と言われ、思考や想像を超えた神がかり的な奇跡の周波数です。私たちは光で生きています。また微細な光を体から出しています。それをバイオフォトンと学者は名付けています。生命は不思議です。
私たちの身体と心は無数の周波数を奏で、瞬間瞬間、秩序を作りながら流れています。ある瞬間(一秒間で、10回に1回の割合で生起する)、その多数の振動が統合されたものが意識であるといった脳科学者(フリーマン)がいます。苦しみの周波数は一つの形があると推測されますが、音階が同じでも音色が違うように表出された周波数と、その波形は無数になります。それが生物や動物や人間のかたちの違いを形成していると思われます。
こうした不思議な生命現象をブッダは「サ・ダルマ」(漢訳すれば妙法)と名付けました。ブッダのいう法とは、人間の感覚では感知できません。私たちが感知できるのは五つの感覚器官が感受した世界とそれを言語、イメージ化した意識までです。存在し変化を生み出す見えない働きは、意識を超えた潜在心にあります。その世界は広大であり、己心のリズムと外の世界のリズム・宇宙のリズムが冥合する瞬間に直観する世界です。
科学は、あるものごとや現象を理論として仮説し、それを実験・実行し、その仮説の正しさが証明され、現実に適用して効果を発するものと定義できます。ブッダの説いた仏法(生命科学理論)は、それを正しく実行すれば、もともと私たちの内界に存在する慈悲と智慧と創造の周波数が宇宙に実在するそれらと同期することによって結果が出てきます。例をあげれば、苦しんでいる人がブッダの仏法を正しく実践した結果、苦しみから解放される事実が百発百中ということです。それを科学と言います。仏法は正しい理論に裏打ちされた実証性を持つ科学です。量子力学がそれを証明しつつあると言われています。
参考資料2…太陽の宗教
釈尊・ブッダ(正法時代の仏)は、この宇宙の真理、生命の真実の法を悟り、40年間にわたって、その法を説いたと言われています。すべての生命的存在・人間には仏性が内在していると法華経で語りました。仏性とは宇宙や生命を創りだす無限の智慧と慈悲の働きを言い、その働きは誰かがつくったものでもなく、もともとに存在し(本有常住という)、常に不可思議な「今」を振動をしていると言います。
私たちの生命は始めもなければ、終わりもない存在。つまり「無始無終」「因果俱時」の不可思議な「今」の振動とブッダは覚知しました。マインドフルネスや禅はその「今」に接近する試みですが、一部しかとらえられていません。「今」の心の周波数は最新の量子力学でも分析できていません。ニコラ・テスラは「この世で死んだ人はいません。なぜならエネルギーは不滅だからです。一つの形から別の形に移ったにすぎません」とインタビューで答えたそうです。つまり、生命は永遠に「今」が続くとニコラ・テスラは言いました。生命の持つ無限の可能性の働きを仏性(今の奥底の生命現象)と言い、人間の中の太陽にたとえています。末法の法華経の行者日蓮(末法の仏)の名前にも、その意味が込められています。
正法、像法、末法における三種の法華経と四人の仏
釈尊は、「今」という瞬間の生命の不可思議な振動に、未来の法の流れ(生命の流れ)である混然一体となった周波数の集まりのようなものを直感予言し、的中させています(大集経に収納)。正法(釈尊滅後の1000年間…釈尊の法で救われる時代、竜樹・天親などの天才の菩薩が出現し、生命の空(くう)や縁起という深遠な生命論を展開しました)。
像法(釈尊滅後1000年~2000年の期間、釈尊の法が像(かたち)になり、読経が盛んになり、多くの寺が建てられる時代で、法華経が理論化されました。像法時代の仏、天台大師は、止観(流れゆく心を一旦言葉でとめるようにして生命の深層に入る瞑想)によって生命内奥を観心し「一念三千理論」を体系化させ、生命を科学的に理論化させました。
末法は釈尊滅後2000年以降。日本では平安時代後期。末法思想が広がった時代、末法には新しい法華経が広がると予言しました。天台・伝教大師は、末法の法華経の行者が末法の仏であると予言しました。末法に正しく法華経を弘めた人は日蓮しかいません。生命の今の不可思議な振動・周波数を悟れば、未来の結果が洞察できると言います。それを仏智・仏眼といいます。
この宇宙には三世に無数の仏が存在すると釈尊は法華経で語ります。仏とは、法華経の法(生命の法)を悟り、法華経の法で実際に多くの人を救済し、幸福にさせる慈悲の勇者と釈尊は語っています。法華経という正法に生きれば、誰人も、どんな不幸な運命・宿業をもっていても転換でき、幸福になると断言しました。歴史上、法華経の正しい実践者は100発100中、すべて幸福になっているとの実績が残されています。
三世の諸仏は妙法蓮華経に生きること(妙法蓮華経にナムする、帰命すること)を教えました。仏性=妙法蓮華経は三世に変わらない今を振動する神秘な慈悲と智慧のリズムであり、秩序整然とした周波数です。この神秘な創造的な周波数が私たちの「今の心」に深くに脈打っているとブッダは見抜きました。そのリズムに合わせる行為が信であり、祈りであり、仏道修行であるとブッダは説きました。
その修業は自他ともの抜苦与楽という慈悲の修行です。慈悲の心と祈りがないと、仏性のリズムには乗ることはできません。題目の言葉も比喩だからです。比喩で表見している実態に迫ることこそ、慈悲の周波数の奏でる智慧の祈りなのです。それは自利でだけではなくて、利他を含んだ、共存共栄が宇宙の真実の法のリズムである妙法蓮華経の実相だからです。太陽がすべての存在をあまねく照らすように、すべての存在が利益される、それが宇宙真実の相なのです。(法華経は妙法蓮華経の略称)
正法の法華経は、釈尊の妙法蓮華経二十八品、中でも方便品第二(諸法実相という難解・深遠な生命論が説かれている)と如来寿量品第十六(生命の無始無終・本有常住と無量の慈悲と智慧と幸福の源・功徳が語られている)が説かれています。像法の法華経は、天台大師の「摩訶止観」(生命の観心修行法)一念三千理論などの妙法蓮華経の体系化された深遠な生命理論です。末法の法華経は、日蓮聖人の法華経です。「御義口伝」「三世諸仏総勘文教相廃立」などの深遠な生命理論を背景とした南無妙法蓮華経の題目です。今は末法です。日蓮聖人の法華経を実践修行するのが、時に適った正しい修行になると三世の諸仏は判を押しています。
「正しい」法華経の実践の意味
「正しい」ということを筆者は何度も強調しています。歴史上そして現在も、法華経を語る人は多くいます。しかし正しく語り、正しく実践する人は、無数の土の「爪の上にのる程度の土」とブッダは言いました。天台大師は「法華経をほめるといえども、還って法華の心を殺す」と警告しました。日蓮聖人は「仏教者が必ず仏法を壊す」「獅子身中の虫、獅子をはむ」と警告されました。正しく法華経を生きることの難しさを諭しています。
なぜ、正しく実践できないのでしょうか。ブッダは、己の名聞名利や我慢偏執を乗り越えられないからだと言います。有名、人気、評判、お金、物質、利益などに関する煩悩・欲望、自己執着(我執、我見、我癡、我愛)などの自己執着愛に心が揺れてしまい、正しい実践ができなくなるからです。法華経の心とは慈悲に生きることです。自他ともの救済に生きることなのです。それは自己執着心との闘いが求められます。
宇宙の真実は慈悲と無慈悲を含んだ働きであり、創造と破壊が一体となった存在(無明法性一体なるを妙法というなり、無明は生命の破壊性、法性は生命の創造性を指します・日蓮聖人の言葉)です。志を失い、名聞名利・我慢執着にたぶらかされるとき、その人の中で法華経は死んでゆきます。つまり生命の破壊性・魔性に支配されてゆくからです。
生命は「厳しい三千羅列の因果の法(日蓮聖人の言葉)なのです。常に慈悲と創造に生きる実践と向学心がなくなったとき、法華経もその人から失われます。そして生命の魔性(破壊性)という無明に、むしばまれていることに気づかず、法華経を傷つけ、法華経の心を殺してゆきます。それが宇宙の真理の法、幸福になる法であるにも関わらず、法華経が人々に根付かない理由の一つとブッダは言います。
生命の魔性・破壊性に勝つのは仏性・仏しかないと三世の仏は断言されました。慈悲の拡大こそ真の平和です。それは、破壊性・魔性・無明との闘いの中でしか勝ち得ない厳しいものなのです。その勝利者を仏と言い、人間王者であり、絶対的幸福者の別名です。
〇筆者の生命哲学研究歴… 広島大学総合科学部(一期生)在学中から、哲学、文学、天文学、思想、日本人の行動様式論、生と死の宗教(主としてキリスト教と仏教)、森田療法、フロイト・ユング深層心理学、認知行動療法、仏法生命哲学を研究してきました。深層心理学と仏法生命哲学研究歴は50年を超え、ここ10年は量子力学、身体科学と仏法生命科学(中心は法華経)の関係性を重点的に研究し、実践しています。修行と学びの旅は今も続いています。
私たちは感情を持つ思考マシンではなく、思考を持つ感情マシンなのだ。…アントニオ・ダマシオ(神経学者)
いじめの極致は戦争です
最近、高校生や中学生のいじめの動画がSNSで拡散され話題になっています。また、ロシアやガザ地区の戦争も収まらない中、アメリカファーストを掲げる強者トランプ大統領は、弱国ベネズエラを攻撃し、大統領を拘束し、罪もない無辜の民を100人以上殺したと報道されています。
これらの行為に、あなたは正義や人道を見ることができますか…弱肉強食の動物の本性そのものであり、私は、それらの行為に人間性を見ることはできません。いじめの極致です。もし、この宇宙に生命平等の法があるのなら、戦争で人を殺す人は極悪人と裁かれ、極刑に処されるでしょう。しかし、現実の世界は戦争で勝利する強者は帝国主義者の王様で、裁かれるどころか、英雄あつかいにする人も少なくありません。
悲しいことですが、それが世界の歴史の事実であり、「強者こそ正義なり」が現実世界の常道になっています。つまり、強いものが弱いものをいじめ、傷つけることは悪いことではないという考えにつながります。
こうした弱肉強食まるだしの極悪非道の殺人を伴う戦争より、大分の中学生のSNSの動画の暴力行為のほうを大騒ぎし関心を強めているのが日本の現状です。一方は大量殺人、かたほうは暴力、どちらもいじめに共通する弱肉強食の動物性の本能から発していますが、天地雲泥の差があります。人間は距離が遠くなると「対岸の火事」のように傍観者になります。本質を見ない傍観者がいじめを助長しています。家庭の中で親が、こうした戦争がいじめの極致であり、どれだけ人間性を低下させる魔の行為であることかを教えていけば、いじめの防止につながってゆくと考えられます。
いじめは、弱肉強食の愚かな人間の本能から起きる
動物でもやらない虐待やいじめや殺行為を、なぜ人はすることができるのでしょうか。そこには人に潜む動物性と魔性があります。それは、人がそうした行為をするとき、人間の良心が何かに乗っ取られ、支配されているからです。人でありながら人としての道理や倫理規範が全く消失しています。その時、人間は人間の皮をかぶった最悪の動物、魔物になっています。この世界で最も怖い存在は間違いなく人間と断定できます。
動物を超える残虐ないじめは 人間の知の産物
動物を超える殺行為や残虐性は人間の知の優越性にあります。殺人のための武器をつくり、原子爆弾をつくって自分や自国を守り、他人や他国を攻撃しようとします。動物の中の知的優者人間が地球の動物を支配しています。どんなきれいごとをいっても弱肉強食の動物性に基づいた行為、それが見境なく人殺しをする戦争であり、いじめです。そして被害者は弱者の子供や女性や立場の弱い人たちです。最悪は、こうした大量殺人する強者は、誰も裁くことができないという現実です。国連も絵に描いた餅にすぎません。誰も止めることができていません。今日まで、多くの人々は、その防止を神に祈り、偉大なる神の力の発動を願ってきましたが、未だにその福音は地上もたらされていないようです。
いじめという悪と戦う正義の勇者も同じ人間
それを止められるのは、やはり人間なのです。歴史上でも、その悪魔性の人間に立ち向かった人は数多くいます。「走れメロス」の勇者メロスも、臣下を簡単に殺す暴君と戦います。しかし、あくまで作者の願望であり理想世界の表現にしかすぎません。最近の人では、アメリカのキング博士、インドのマハトマ・ガンジーなどが有名ですが、いずれも凶弾に倒れました。また数多くのデモ行進も正義を訴えた行動ですが、権力者の武力によって鎮圧されています。
悪の野蛮性が勝つか、人間の善性が勝つか、この世界は常に死闘なのです。正義がなくなれば、この世は悪の支配する暗黒の世界になってゆきます。第二次世界大戦下の日本やナチスドイツ支配下の世界などが、まさに暗黒の闇の恐怖に凍りつくような世界だったと思います。そうした世界では野蛮ないじめが横行し、人間が同じ弱い立場の人間をおもちゃ扱いにしたり、平気で殺したりしてゆきます。私たちは今、ベネズエラやウクライナやガザ地区の子どもたちや女性などに、その悲惨を見ています。同じ人間として、心が痛くなり、涙が止まりません。
人間も弱い動物を殺し食べる畜生の心身をもっている
どんな人も、自分は動物性を持っていると自覚することが、いじめ防止の第一歩になります。人間も動物の一種です。生きるために、食べる、寝る、生殖活動をするという本来的能力が生まれた時から遺伝子に組み込まれています。生きる為には身を保たなくてはなりません。食べ物を確保するために、肉食動物は弱いもの見つけ、殺して食べます。生きる為に遺伝子に組み込まれた殺本能です。
動物種の人間も弱い存在を傷つけたり殺したりします。どんなきれいごとをいっても、同じ動物種でありながら、私たちは、間接的ですが、弱い動物をいじめ、殺して食べています、豚、牛、鶏、羊、馬、魚など…。牛や豚などは、殺される前に強い恐怖を感じ泣き叫びます。情(神経による感覚反応が動物には具わっている)があるから恐怖に苦しみます。その恐怖心は人間も豚や牛も同じです。
真の仏教者(注1)が肉食をしなかったのは、動物を損傷し、恐怖や苦を与えることが生命の法則から見た悪行だと知っていたからです。しかし、私たちは生命の真実の法を知らないから、平気で、「おいしい」と言って食べることができます。
(注1)真の仏教者…この宇宙の真実の生命の法を覚知し、その法で人々に影響を与え、実際に多くの人を救済した慈悲の行動者のこと。仏教史上では、釈尊(ブッダ)、竜樹、天親、天台、最澄、日蓮などと言われています。生命の真実の法によると、有情(神経を持つ存在は恐怖と苦を感じる)の殺行為は悪の一つとされています。悪とは、他者を損傷し、恐怖や苦しを与える行為です。仏法生命論からみれば、他者の損傷は自らの生命の損傷に還ってくるという原理(依正不二の生命論・付録1)から、やがて自ら苦しむ結果をもたらすと説いています。
強い国は弱い国を平気で攻め、それが自国の正義であるかのような感覚で多くの人を殺します。「自国ファースト」とか言って、大量に人を殺します。その時、人は人ではなく、ものとみなされています。同じ人間だという自覚があれば、どんな状況であっても人を殺したり、いじめたりはできません。いじめやその極致である殺人は、人をモノとみることで行われます。人をモノ化してみることを人間の魔性(注2)(奪命者)とブッダは洞察していました。
(注2)人間の魔性…仏法生命論によれば、魔は「第六天の魔王」(付録2)と表現され、誰人の生命にも潜在する働きと言います。「魔がさす」というのもその働きの一部です。第六天の魔王は欲望世界の頂点に君臨し、別名「他化自在天」(たけじざいてん)といいます。つまり他者を自由に支配し、もののように扱う働きです。人間の欲望の頂点の一つは権力です。権力者はこの他化自在天に操られやすくなります。だから、多くの人を殺すことができます。それは今も歴史も証明する事実です。
人間としての思いやりと慈悲心がいじめを防止する
「己の欲さざることを人に施すことなかれ」(自分のしてほしくないことを、人してはいけない)孔子の論語に収められたこの言葉は中高時代に学んだ一節だと思います。どんな状況下にあっても、この言葉の内容が実行できれば、いじめはなくなりますし、戦争もこの世界から消滅します。弱肉強食の愚かな畜生性を持つ人間性を克服するのは、同じ人間と観る平等感から発する人間としての思いやりのこころであり、慈悲心です。しかし、知識だけではいじめは克服できません。道徳教育で防止できていない現実を見ればわかると思います。もちろん、道徳教育も一定の効果は発揮している思いますが…。家庭教育、学校教育、社会教育、環境教育、生命教育という総合教育とその実践の中に培われる高い人間性の修得過程の中で培われる智慧(注3)が鍵になるからです。人格者はいじめも殺人もしません。
(注3)智慧…知識は過去であり固定化された物質的なものです。脳内の記憶の蔵に収まっている本のようなものです。いくら知識量が多くても変化し流れゆく現実の問題を解決する力にはなりません。学歴が社会で役に立たないと言われるのは、そこに原因があります。ですが、知識は物事の解決に必要であること間違いありません。問題を解決する場合の選択肢になるからです。智慧は現実解決の力であり、柔軟性があります。問題解決力、対処力、処理力と言えます。現実の壁を乗り越える力であり、困難を超える力であり、人生を生き抜く力が智慧なのです。臨機応援の対処力が智慧です。ハウトゥーものは、あくまで知識ですから、実際の役に立たないのは、ここに原因があります。人間関係力は智慧によります。いじめ防止にも智慧が必要です、知識では止められないからです。知識より大事なものが智慧になります。それは現実生活の体験の中で知識を使い続ける経験と自省の中で身につくものです。自分や他人を高める有益な習慣力は智慧の結晶とも言えます。名門大学を出ても智慧のない人はたくさんいます。また中学卒の人の中にも豊富な智慧を持つ人はたくさんいます。人生で大事なものは知識より智慧であり、最も偉大な智慧は慈悲(他者の苦しみを抜き楽を与える行為)から生まれるとブッダは言いました。
怒りがいじめや殺人を引き起こす
自分の思うようにいかない時に発する怒りがいじめや殺人につながります。人間は簡単に怒りに良心を乗っ取られてしまいます。怒ると人間は冷静さを忘れ、最悪の場合、他の生命を破壊したり殺したりします。怒りは破壊につながる怖さを持っています。
しかし、相手が自分より強い人や立場が上の人に対しては、その怒りを出すことができません。自分の心の中にしまい込み、その怒りを出せる相手を見つけた時、自分より弱い立場の人にぶつけます。世に言う「八つ当たり」です。虐待は強い立場の親が弱い立場の子どもに向けられます。いじめも相手が自分より弱い立場にあると認識する時にできる行為です。その心は弱肉強食の畜生性ですが、「集団で一人の弱い立場ある人を卑劣なやり方で攻撃する」「幼児に熱湯をかける」などの過剰なやり方の残酷さは畜生以下の生き物というしかありません。人間にはなまじっか「知」があるから、残虐性も他の動物より酷くなります。ブッダは怒り(瞋り)は地獄をもたらすと言いました。
子どもが思い通りにならず、一晩中泣き叫ぶ場合でも、虐待する人としない人がいます。その分かれ道はどこにあるのでしょうか。いじめも同じです。加担する人としない人に分かれます。それは人間性で決まります。 人生の中で心にしっかりと積んだ徳。弱い立場の人を守る、弱い立場の人を攻撃しない、自分が強い立場にあるだけで、相手にとって脅威の存在になっているということを自覚している人は虐待したり、人をいじめたりしません。 その根底には人としての正しい思想があります。自分も相手も、たとえ子どもや赤子であっても痛みや喜び感じる同じ人間存在であるという知を持ち、怒ったときもそれを思い出し、行動を抑制できます。それを智慧と言います。
こうした抑制力は環境の中で培われます。特に家庭環境に強い影響性を持つ親の存在は大きなものがあります。親の行動や声や言葉は、子どもの五体、毛穴からも染み込み、子どもの心に深く入り、子どもの思想を形成します。 虐待の連鎖、虐待は親から子に伝わるとは、このことを指しています。世にいう「アドルトチルドレン」とか「インナーチャイルド」とか「機能不全家族」とか「毒親」いう言葉は、これらを指しています。 いじめの場合は、本人にかかっているストレス解消などの要素があります。
しかし、虐待された子どもが、虐待する親に必ずしもなるわけではありません。連鎖の中に入るのは、ごく一部というが正確な事実です。私は、多くの虐待する親と、その子どもを見てきましたが、比率からすると、連鎖は3割以下といってよいでしょう。中には、虐待を受けた子どもが、自分の体験から学び、同じことを子どもにさせたくないと、立派な親になっている人も見てきました。一方、虐待の親よりも進化して、ひどくなる人もいます。その違いは、どこにあるのでしょうか。
ここが一番の重要な難所です。専門家もここが解けないので、適切な手立てが組めていないのが現状です。人が育っていく要因には、家庭環境要因、学校環境要因、社会環境要因、人的環境要因、素質的要因などが微妙にからみあっています。一つだけに特定すると部分観に陥ってしまいます。物であれば部分観が通用しますが、人間は常に全体という調和の中で生きているから部分観では解決できませんし、そうした部分の分析知では、間違いすら起きてしまいます。
生まれながらの差異や違いをどう昇華させてゆくかが大事
これらの要因の中で大事なのは、人的要因と素質的要因です。なかんずく素質的要因が大事になります。これは心の深層と関係している難問であり、あらゆる病気や悲劇の要因の一つです。なぜ難問なのか、それは不可思議な生命そのもの真実性の解明が求められるからです。0,21ミリ程度の精卵細胞に全ての種子が内在している事実は不思議というしかありません。ここにはあらゆる生命の持つ神秘性が隠されています。
つまり生命誕生のなぞと死後の生命のなぞ、そしてその二つをつなぐ生命の一貫性の謎です。今生きている生命が死後どうなっていくのか、今の生命が五つの感覚(眼・耳・鼻・舌・身)と意識という肉体を通して顕在する働きの感受と認識を失ったとき、つまり肉体の死=死ですべてが終わるのか、それとも記憶を貯蔵していた脳は焼失しますが、無意識層に蓄えられた行為の全体が心法(注4)として死後も潜在して続き、今の生と似たような環境を得て顕在化するのが、この仏法生命論の見解です。3000年前、インドの菩提樹の下での釈尊の哲学的悟りは、「自身の我(が)は永遠である」「自身の我は、何ものかに作られたものでもなく、我は永遠の昔から存在し、永遠に続いていく」「自身をつくったのは自身の内なる法…サ・ダルマ・プンダリキャ・ソタランである…名訳者が翻訳=妙法蓮華経」というものでした。この哲学的悟りから東洋思想・東洋哲学・東洋医学は発展したと言われています。
(注4)心法…見えるかたちや肉体を支えている見えない、分析できない働きをいう。魂とか霊魂などという皮相的な言葉では表現できない働き性質を持つもの。私たちの体は、脳や神経、各臓器、血液、ホルモン、リンパなどが調和統合されて生を保っています。その調和、統合している働き、また肉体そのものを動かしている働きを心法と言います。意識ではありません。意識は心法のごく一部の働きにすぎません。生きているときは、肉体と心法は一体ですが、肉体がなくなったあとは心法は冥伏(みょうぶく)・潜在し、「空・くう」の状態で、心法は永遠に続きます。自分にふさわしい形(肉体)を見つけて再び顕在します。今世の生き方の「心法」が来世も続きます。畜生性の強い生き方をした人は来世は畜生のかたちを得、人間らしい生き方をした人は人間の形になるとるなどとブッダは法華経比喩品で説きました。それを自業自得と言います。「今まで死んだ人はいない。エネルギーは不滅だからです。一つの形から別の形に変わったにすぎません」と物理学者ニコラ・テスラは言いました。心法をエネルギーととらえるとわかりやすいかもしれません。
飢餓感に似た欲望に支配された時、人は人を損傷したり殺したりする
飢餓感に襲われ、それをはやく満たそうとするとき、人間は、見境なく欲望を達成するために対象に一直線に向かいます。思い通りにするために他者を利用します。相手が同じ人間であることなど、自分の欲望達成のためには毛頭も考えません。相手を傷つけても平気な精神状態になります。痛みも感じません。だから虐待やいじめが平気でできるのです。窃盗、強盗、ストカー殺人の原因はここに潜んでいます。その本質は「貪り」の生命とブッダは洞察しました。
以上の三つの人間の持つ悪魔性(畜生性のもつ愚かさ、貪り=むさぼり、瞋=いかり)を調整できれば虐待やいじめは防ぐことはできます。
付録1「依正不二・えしょうふにの生命論」…「依」は依法で正法を取り巻く環境世界、「正」は正法で主体、自分という意味です。その二つは二つに見えますが常に同時に出現するという考えです。自分は一方は自分という主体、一方は環境という主体の影のような存在です。主体が曲がれば影は曲がります。主体がまっすぐであれば、影もまっすぐになります。この生命論は変革の原理と言われています。つまり、主体の自分が変われば環境も変わります。私は、人生の中で、何度もその哲理の真実を実感しています。近い言葉に身土不二があります。
付録2「第六天の魔王」=他化自在天(たけじざいてん)。人間生命の欲望の頂点に存在する生命の働きを言います。人間を含めた宇宙の生命現象は破壊性と創造性の二つで織りなされています。それは生と死という現象で説明できます。どちらも生命の持つ二面性であり、もともと具わっている働きです。闘わないと破壊性・魔性にこの世は支配されるとブッダは達観され、生涯、人間性の魔性と戦い抜かれたと言われています。魔性に勝てるのは生命内在の仏性・(仏の働き=創造性・蘇生力)しかないとブッダは言われました。
〇筆者の生命哲学研究歴… 広島大学総合科学部(一期生)在学中から、哲学、文学、思想、日本人の行動様式論、生と死の宗教(主としてキリスト教と仏教)、森田療法、フロイト・ユング深層心理学、認知行動療法、仏法生命哲学を研究してきました。深層心理学と仏法生命哲学研究歴は50年を超え、ここ10年は量子力学、身体科学と仏法生命科学(中心は法華経)の関係性を重点的に研究し、実践しています。修行と学びの旅は今も続いています。
楽しいこと、おもしろいこと、心地よいことを求めて、私たちの心は外の世界に向いている
私たちは楽しいこと、おもしろいこと、快適なことを求めて生きています。それは苦を避け、楽に生きたいという人間本能の働きによります。お金がほしい、いい服を着たい、おいしいものを食べたい、家が欲しい、車が欲しい、旅行に行きたい、ライブに行きたい、スポーツ観戦に行きたい、ゲーム・ギャンブルをしたい、お酒を飲みたい、社会的地位を得たい、有名になりたい、人に認められたい、友達がほしい、異性がほしい、旅行に行きたい、いい高校に入りたい、いい大学に合格したい、いい会社に就職したい、平和に生きたい、きれいになりたい、健康になりたい、癒されたい、苦しみから解放されて楽になりたい、好きなことを思いっきりやりたい、幸せなりたいなど…。そのために目はいつも外を向いています。しかしそれらを得ることができたとしても、喜びは泡のように消え去り、長続きしません。多くの人は、求めるものを得ることができない苦しみを味わっています。人生は苦楽をめぐりながら進みますが、あなたはどちらを多く感じて生きていますか?
どこにいても 何をやっていても いつも楽しい境地になるために
どこにいても、どんな環境にあっても 何をやっても楽しく 自在で、面白く生きることができる、生きていることが楽しくてしかたがないという境地になることを「衆生所遊楽」(法華経)(しゅじょうしょゆうらく)と言います。私たちが人間としてこの世に誕生した目的は、その実現にあるとブッダ(注1)は説きました。そして、その実現は慈悲(注2)に生きるときに叶うと教えてくれました。
私たちは、この世に誕生したとき、わずか直径0,1ミリほどの一つの精卵細胞という微小な存在でした。それがいつの間にか40数兆個の細胞となり見事な秩序ある身体組織を形成し、50キロを超すほどの体になっています。これらの不思議な創造的な働きを生命の持つ慈悲といい、智慧といいます。この宇宙のすべては、慈悲と智慧によって産みだされたとブッダは語ります。
この世界、自然、宇宙の現象をありのままに見るためには 浄化された生命が必要
このあまりにも不思議な働きをユダヤの人たちは、人間の心の外に見い出し、神・ヤハウェと名付け、万物の創造主としました。それに対してブッダは宇宙につながる法が、わが心の中にもあると直観したのです。誰人にも内在する不思議な力であるからこそ、その法を覚知できれば、人は自力で自分の運命・宿業を変えていけると説いたのです。この世界のあらゆる言葉も思想も宗教も、すべて人間の思考から始まっています。存在する言葉、思想、宗教は人間が生み出した言葉で形成されたものであり、人間以外の産物ではありません。
(注1)ブッダ…悟りを開いた後、釈尊(しゃくそん)、仏陀と呼ばれるようになりました。ブッダは、釈尊一人を指すのではなく、過去・現在・未来という三世(さんぜ)の宇宙には無数のブッダがいるとされています。ブッダとは、生命の永遠性と無量の智慧を直感し、その智慧と慈悲の力で、多くの人々を実際に救済した人のことです。
慈悲は智慧を生み出すとブッダは説き、その智慧は甚深無量(じんじんむりょう。無量で果てしないという意味、法華経の言葉)であり、慈悲の心はすべての生物を救う大悲(たいひ)と説きました。また「慧光照無量」(えこうしょむりょう、法華経の言葉)、簡単に説明すれば、智慧の光は、宇宙の無限まで照らしゆくと説きました。生命が発する光です。
「一切衆生の異の苦は如来一人の苦」と語ったブッダ。その意(こころ)は、すべての生きとし生きるものの苦しみは、私一人の苦しみであるとして衆生救済に生涯を捧げました。その尊い慈悲の振る舞いを仏(ほとけ)と言います。仏とは奈良の大仏のような偉大な人間離れした存在ではありません。人間性の極致である、尊く美しい慈悲の振る舞いを表現した言葉です。あくまで、仏は人間であるとブッダは強調されました。そして、弟子たちに自分と同じ仏の境涯に至る道を慈悲と智慧で教えました。
歴史上にも、ブッダの悟りに限りなく接近した菩薩と言える人がたくさんいます。例を挙げると、ソクラテス、孔子、ガンジー、アインシュタイン、ニコラ・テスラなどです。ニコラ・テスラ(1856-1943,交流電圧など200以上の発明者・詩人・哲学者)は数多くの発見発明をし、人類に貢献しましたが、それ以上に彼の生涯の生きざまや振る舞いから、彼の慈悲と智慧の偉大さを私は感じます。テスラは言います。「存在とは光の無限の形象の表現です。なぜならエネルギーは存在より古いからです。そしてエネルギーによって、すべての生命は織りなされたのです。」エネルギーは、生命であり、混沌とした煩悩であり、光であり、智慧であり、慈悲なのです。生命の最高の表現(エネルギーの形象)は、智慧に裏打ちされた慈悲の振る舞いです。それを如来・仏と言います。(注1)終り
(注2)慈悲(じひ)…釈尊が涅槃経(ねはんぎょう)で説いた言葉です。抜苦与楽(ばっくよらく)といい、苦しみを抜き楽を与えるという意味です。生命は不思議なエネルギーの流れであり、混沌(こんとん)として過去の記憶の蓄積したもので流れています。私たちは、その流れを、快、苦、快でもない苦でもないという三つを受信し、その対象を意識で鮮明にして生きています。
動物・人間は快を求め苦を避けますが、苦は避けることができません。人の五つの感覚(視覚、聴覚、舌覚、嗅覚、触覚)の受信能力には限界があり、思い通りにならない障りが多く、意識は苦を避け、快に偏る傾向があります。快は楽や心地よさをもたらすからです。しかし、生命は快と苦の絶妙なバランスで流れていますから、その偏りや執着から苦が生まれます。慈悲は智慧の力で苦を解脱(げだつ)する力を持っていますから、苦は楽へと調整されてゆきます。それを抜苦与楽の慈悲の働きといいます。身体的いえば、恒常性機能や免疫などの自然治癒力は慈悲による身体の智慧と言えます。
自分も救い 人々も救う尊い振る舞い…慈悲に生きる人によい智慧がわく
その慈悲を支えるものこそ、無量の智慧です。慈悲の振る舞いを菩薩と呼びます。弥勒(みろく)菩薩、観音菩薩、文殊(もんじゅ)菩薩、普賢(ふげん)菩薩など、三世にはたくさんの菩薩がいます。弥勒のことを救済者・メシア(イエス・キリストはメシアと呼ばれていた)とも言います。太陽や地球は地上の生物を慈しみ育む慈悲を行じ、私たちの生命を救う菩薩の働きをしています。太陽神、水神、風神、地神、海神などの自然崇拝は、人間の素直な感謝の心から発したものでした。それを宗教心と言います。
慈悲が人間品性の最高なものであり 美しい人間性
菩薩は他者の苦に共感し慈悲に生きる人です。仏は宇宙の法を悟り、その法に生き、それを人々に教え、生きる最高の喜びを産み出す人生を教える人です。それを最高善とも言い、如来(にょらい)ともいいます。京都の三十三間堂には、たくさんの菩薩像や如来像が安置されています。それは、彼らが、人々の尊敬と憧れの対象だったからです。すべて素晴らしい素敵な人たちであり、私たちの模範であり、目標の人たちです。私たちの心の中にも潜在する素晴らしい働きなのです。(注2)終り
創造は慈悲であり 破壊は無明煩悩の働き
慈悲は美しい秩序であり、調和をもたらします。慈悲は心が産み出す人間美の芸術です。慈悲ある人は内面から、素敵な輝きを放ちます。慈悲は絶えず変化し、更新される美しさです。私たちの生命は、もともと創造性と破壊性の二面を持っていますが、破壊性を創造性に変えゆく智慧を秘めています。その力を慈悲と言います。慈悲とは万物を産み出し育み慈しみ守り、苦しみを抜く大悲の智慧です。赤ん坊を無心に守り慈しむ母の振る舞いも慈悲です。慈悲は智慧を生みます。
人間の最も美しい品性は慈悲です。昔の日本人が愛してやまなかった観音菩薩は慈悲の体現者の象徴でした。桜の花を見て心を癒されるのは、桜の持つ慈悲の働きを私たちが感じるからです。すべての生物は、本来その慈悲の智慧力を内在しているとブッダは覚知しました。そして、それを私たちの生命に汲み出す方法を教えてくれました。
宇宙や自然はすべて素粒子で構成され 複雑な神秘的な振動をしている
宇宙の現象はすべて、振動する素粒子の働きで成立しています。ブッダは、この宇宙の振動を覚知していました。浄化された生命で、今の振動数を悟ることができれば未来の結果が見えてきます。だからブッダは未来2000年先の法の流れを予言(大集経にまとめられている)し、それを現実に的中させています。ニコラ・テスラやアインシュタインも、宇宙の存在物はすべて振動していると明察していました。
現象を起こしている目に見えない流れをとらえる言葉として仏法生命科学は「即・そく」を使います。あくまで、言葉は比喩ですが、言葉で表現しないと他者には伝わらないからです。有名な「色即是空・しきそくぜくう」(般若心経…般若は智慧という意味で目に見えない働きを指す。「色・しき」=色法=分析できる形をもったもの、人間で言えば身体。空・くう=「色・形あるもの」を支える見えない働き、人間で言えば心。その二つは、つまり一体である、その一体性を表わす言葉が「即」になります)は、この「即」を理解すれば生命の妙がわかります。即とは「妙」という不思議な目に見えない働きをするものとブッダは説きます。生命の流れは混沌とした煩悩の流れですが、慈悲に生きるとき喜びに変わります。煩悩が喜び、悟りになります。それをブッダは、煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)と悟りました。菩提は悟りという意味であり、生命エネルギーの最高の振る舞い、智慧のことです。
病は 偏り、執着という部分へのとらわれが産み出した一時的な不幸の現象
偏りや執着は秩序を乱し、病を招きます。過剰や不足はバランスを崩し、心身を不調にします。生命の本来の秩序を知ることが何よりも大事です。科学を信じて生きている私たちは、部分観に生きざるを得なくなっています。科学は部分の分析から法則を発見し、私たちの生活に利益をもたらすという実証を示しているからです。分析された対象は真実です。しかし、ものごとの全体をとらえてはいません。意識し分析できる世界と、意識を超えて分析不能な広大な世界の働きに目を向けることが大事になります。部分と全体のつながりを知ることが、健康になるための必須の条件です。
真の健康は慈悲に生きることにある
真の健康には、いかなる財宝や名声にも及ばない、喜びと心の躍動と調和の美があります。それは心の中に、もともと潜在する慈悲と智慧が現れたものにすぎません。これを「無上宝珠不求自得」(法華経)(…無上の宝珠は求めざるに自ずから得たり)とブッダは説きました。宇宙最高の宝が、私たちの生命にもともと存在しているということです。その宝こそ、慈悲と智慧のエネルギーなのです。慈悲は創造するエネルギーとも表現できます。その慈悲を私たちの生命に湧き出させる方法はブッダに学ぶのが一番です。自力で学び修行し、自らそこに到達するには、一生をかけても到達できないかもしれません。正しい先人の智慧に謙虚に学ぶのが早道です。正しいことが大事になります。正しくないと努力が徒労に終わるばかりか、偏りは執着を作り、不幸の原因になります。智慧と慈悲の瞑想を芝蘭の室では実践しています。具体的には、身体瞑想、自然宇宙瞑想、知恩瞑想、詩読誦瞑想の四つを行います。
コラム…周波数(ここではリズムを同じ意味で使っている)…一秒間に振動する数、単位はHz(ヘルツ)、私たちの脳波は通常、シーター波(4~8Hz、まどろみ時)、アルファ波(8~13Hz、リラックス時)、ベーター波(13~30Hz、活動時)、ガンマ波(30Hz以上、緊張、興奮時)の周波数が中心になっていると言われています。癒しの周波数は、528Hzと言われ、リラックス効果やDNAの修復が期待される奇跡の周波数という学者もいます。また432Hzは、自然の周波数や宇宙の響きと呼ばれ、心を落ち着かせ、感情を穏やかにする効果があるという学者もいます。人間が耳で聞くことができる周波数の範囲は、20~2万Hzと言われ、出せる音は80~1100Hzと言われています。ちなみに蝙蝠は10万Hzの音が聞き分けられる音の超能力動物です。波動は振動を伝えるエネルギーです。
周波数が高いと波動も大きくなります。この宇宙で最も周波数が高い存在は、現代量子物理学の発見によると光とされ、400兆Hz(赤外線)から700~800兆Hz(紫外線)と言われ、思考や想像を超えた神がかり的な奇跡の周波数です。私たちは光で生きています。また微細な光を体から出しています。それをバイオフォトンと学者は名付けています。生命は不思議です。
こうした不思議な生命現象をブッダは「サ・ダルマ」(妙法…漢訳)と名付けました。ブッダのいう法とは、人間の感覚では感知できませんが、確かに存在し変化を生み出す働きを言います。科学は、あるものごとや現象を理論として仮説し、それを実験・実行し、その仮説の正しさが証明され、現実に適用して効果を発するものと定義できます。ブッダの説いた仏法(生命科学理論)は、それを正しく実行すれば、慈悲と智慧が生命に流れることによって結果が出てきます。例をあげれば苦しんでいる人がブッダの仏法を正しく実践した結果、苦しみから解放される事実が百発百中ということです。それを科学と言います。仏法は正しい理論に裏打ちされた科学です。量子力学がそれを証明しつつあると言われています。
〇筆者の生命哲学研究歴… 広島大学総合科学部(一期生)在学中から、哲学、文学、思想、日本人の行動様式論、生と死の宗教(主としてキリスト教と仏教)、森田療法、フロイト・ユング深層心理学、認知行動療法、仏法生命哲学を研究してきました。深層心理学と仏法生命哲学研究歴は50年を超え、ここ10年は量子力学、身体科学と仏法生命科学(中心は法華経)の関係性を重点的に研究し、実践しています。修行と学びの旅は今も続いています。
痛みや苦しみは不調和からのメッセージ
痛みや苦しみは心身の傷つきや不調が発する神経の電気信号によるメッセージです。電子メールのようなものです。執着は神経の疲労を招き細胞を壊します。思考や感情の偏りはバランスを崩し全体を見失わせます。心身の調和が乱れきった時、苦しみや痛みは限界を超え、心身は病みます。しかし、私たちは、その原因を突き止めようとせず、五感で受信した痛みや症状を除去しようとします。その結果、本質的な解決に至ることが難しくなります。智慧の瞑想は、不調和のメッセージの意味を読み取ります。
過去の記憶による反応行動から 今を意識して生きることで 健康になっていく
「木を見て森を見ず」という言葉があります。森に入れば目の前の木しか見えなくなります。これは人間の感覚反応の現実であり、また限界です。人間が鳥のように空を飛べないのと同じです。森全体を見ようとすれば想像力を働かさなければ見えません。私たちは、基本的には「井の中の蛙・かわず、大海を知らず」の感覚で生きています。感覚が受信する、ごく一部の世界を、物事の全体と思ってしまいます。それは神経や脳の働きが過剰になり壊れるのを防ぐためです。私たちが生きている現実は、ほとんどが記憶と過去の知識による感覚反応による自動操作的な行動です。井の中の蛙である私たちが大海を見ようとするなら、正しい知識に基づいた想像力を遣うしかありません。井の中から見る世界は部分であり、大海は生命全体を指します。それが反応から、対処(智慧)の生き方に変わる鍵になります。その生き方を継続することで新しい自分が創られていきます。新しい自分を作ることができれば、いかなる心の病も治すことができるとブッダは教えてくれました。
瞑想のやり方を間違えると 迷妄の世界に入り 心の病は増幅する
最近、瞑想が流行していますが、瞑想の本質がわかっている人が、どれほどいるのでしょうか。心を病んでいる人が、安易に瞑想を行うと迷妄の闇の世界に入ってしまい、心の病は増幅することになります。本来、瞑想はインドの古代社会で実践されていた生命(煩悩)を浄化し、生命全体を直感することを志向するエネルギーを必要とする修行法の一つでした。釈迦・ブッダは、先人の実践に学びながらも、自ら独自の瞑想法で生命の真実(生命の全体)を悟り、仏の境地を得た(注1)と言われています。以下は少し専門的な話になります。ブッダの悟りに至るための修行法の一つに禅定波羅蜜(注2)があります。簡単に言えば瞑想によって悟りの境地に至る修行法です。
瞑想は、実は誰人も実行している
瞑想は日常という現実世界から離れ、非日常を体験することです。現実を離れ、自分を客観する世界に入ることです。つまり、一人静かに自分を振り返ったり、内省したり、自然の中を歩きながら、自分を見つめたりすることや日記や記録をつけたりすることも立派な瞑想です。瞑想は特別なことではなく、人間の営みの一つであり、自らを成長させる、かけがえのないものなのです。自分を省みることや反省が自分を高めることにつながるのは、想像力による自己客観視のたまものです。これをメタ認知、鳥瞰的見方という人もいます。しかし、心の病を治し、真の健康を得るには、本格的な瞑想が必要になります。ここでは、その本格的な瞑想について述べてゆきます。
(注1)仏の境地を得た…仏とは宇宙の真理を悟る智慧を体得した人のことを指した言葉です。仏性(ぶっしょう)は宇宙生命の智慧や慈悲を含んだ不思議な法を指しています。仏の境地という場合、すべての生命的存在に内在する不思議な智慧と慈悲の法を悟り、それに基づいて生きている人という意味になります。具体的にはブッダなどの聖人を指します。聖人とは、生命の永遠性と無量の智慧を直感し、その智慧の力で、多くの人々を実際に救済した人のことです。仏教史上、釈尊(正法時代のブッダ)のほか、天台、最澄(像法時代のブッダ、釈尊滅後1000年から2000年の期間を像法という釈尊の教法が像「かたち」になる時代)、日蓮(末法のブッダ、釈尊滅後2000年以降未来永遠、釈尊の教法が隠没「おんもつ」する時代)とされています。世界に目を転じてみると、思想・哲学は異なりますが、孔子、イエス・キリスト、ソクラテスも自らの思想・哲学で多くの人々の精神を高め、救済した人とされ、聖人と言われています。
(注2)禅定波羅蜜…仏の境涯を得るための修行法の六波羅蜜の一つ。波羅蜜とは、今の自分が悟りの境地に至るための修行法という意味です
日本の瞑想は 鎌倉時代の道元の禅が源流
ブッダ以降の仏道修行者の一人、インドの達磨大師が独自の禅を考案し、中国の禅修行者を経て、日本に伝わったとされています。鎌倉時代に栄西や道元が禅を布教しました。道元は釈尊の言葉から離れ、独自に修行の世界に入ることを目指しました。それが「不立文字・教外別伝」です。簡単に言えばブッダの言葉の外にある、以心伝心のようなものと解釈し、独自に悟りの世界に入る修行をしました。しかし、指標なき瞑想が、どこに向かうのか、先人の言葉や正しいイメージのない瞑想は闇の中を彷徨ことになりかねません。道元は死ぬ直前、自らの居場所を「妙法蓮華経庵」と名付け、法華経の「如来神力品」の一節を毎日読誦していたと言われています。彼は、最後には釈尊の言葉・法華経に帰ったのです。心の不調者や病んでいる人は、迷いの世界にいます。そんな人が禅の瞑想をやればどうなるのか、想像しただけで結果は見えています。瞑想は意識から入ります。その意識が迷いの状態にあり、指標がなければ、漂流するしかありません。神経を遣った分、迷いと苦しみは増幅されるでしょう。私も、大学時代にギャンブル依存がひどかったとき、座禅を試したことがありますが、効果を感じることはできませんでした。指標なき瞑想をすることで、今の迷いの自分から離れられるかどうか疑問です。魔界(生命の秩序を壊したり、破壊したりする働きが起きる世界)に入る危険性があると日蓮(ブッダの一人)は警告しました。瞑想には正しい師や指標が必要なのです。
マイドフルネスの目指す瞑想法
マインドフルネス考案者のカバットジン氏は、日本で道元の禅を修行し、それを基にして、独自の瞑想法を開発しました。しかし彼のマインドフルネスは禅とは別のものだと私は思います。彼はイメージや言葉から生命の全体の秩序や調和に迫っています。それが「呼吸瞑想」「歩行瞑想」「今やっていることに対することに意識を集中するという瞑想です」。つまり、「今、生きている瞬間に集中する」という簡単なものです。簡単ですが、私たちは、今という瞬間に、なかなか集中できません。雑念が雲のように湧くからです。過去の記憶から流れてくるような想念に流され、今を過去の記憶の反応で生きているからです。結果、今を生きることができていません。集中力を高めるもっともよい方法が呼吸瞑想です。また身体を観察する「ボディスキャン」です。彼が考案したボディスキャンで部分と全体のつながりを感じてゆくことができます。そうすることでストレスを低減することもできます。彼の主著「マインドフルネスストレス低減法」は、それらの内容を詳述しています。彼の書は世界に広がり、多くの病める人のストレスを実際に低減したと言われています。本当にマインドフルネスを実践したい方は、彼の書「マインドフルネスストレス低減法」を読むことを勧めます。私も彼の書は何度も精読しました。
心身を健康にする 芝蘭の瞑想法
真の瞑想は想像力と思考力を遣って、生命の深層に接近する心の修行です。想像力と思考でブッダの言葉を指標にして深層に入り、本来のありのままの生命の振動にリズムを合わせ、私たちの自己と宇宙的自己が冥合(みょうごう)することが真の瞑想です。そのとき、私たちの意識という一部は、生命全体を直感します。ニコラ・テスラがいう、「宇宙を受信する」ということであり、振動数が重なることと言えます。
「想像力は知識より大事である。知識には限界があるが、想像力は無限であり 宇宙をも包みこむ」 とアインシュタインは言いました。宇宙の物理的真理の一端を覚知された彼の言葉は意味深長です。以下に述べる事柄は、感覚では理解できません。知識を指標として想像力を遣えば感じられる世界です。芝蘭の室の瞑想は、1、「身体瞑想」2、知恩瞑想 3、「地球自然瞑想」4、「詩朗読瞑想」の四つを実践し、心の状態にあったものを使います。前提としての生命の働きを理解する心理学習は必須です。特に心の病の重篤な人は、「詩朗読瞑想」を中心に行います。
心の病の四相…神経症系、パーソナリティ系、うつ系、統合失調症系
心の病を感覚受信、反応、エネルギーの量という視点から、私は四相に分類しています。1、神経症傾向(強迫性、パニック障害、恐怖症、対人不安、トラウマ、解離など)2、パーソナリティー系。 3、うつ・躁うつ系。 4、統合失調症スペクトラム系。神経症系はエネルギー量を多く持っているので、正しい心理学習で自らを知ることで、比較的早く改善可能です。ただし、トラウマの強度が強い解離性に関しては、特別なかかわりが必要になります。パーソナリティ系は、エネルギーはありますが、波が激しく自己コントロール不全に陥りやすく苦しみます。幼少期の愛着の問題が複雑に絡んでいるため、認知と感情の偏りが大きくなっています。その調節には関係者の粘り強い支援と心理学習が必要になります。うつ系はエネルギーが低下していますので、心身の調節をし、エネルギーの補充が何よりも一番です。エネルギー低下がひどく、生きる意欲が著しく減少しているときは、励ましたり、責めるような言動のかかわりをすると、自殺(苦をもたらす対象を自ら攻撃して、対象を消滅させること。対象の消滅をもたらす心身も消えます。自殺の深層因は瞋恚・しんい(自他ともの生命を破壊する強い攻撃性)による苦しみですから、それを解けば解決に至ります)につながったりしますので、細心の配慮が必要です。休養と軽い運動、気分転換や旅行や趣味を優先します。生活習慣リズムの改善が必須です。エネルギーが出てきたら、心理学習や身体・地球瞑想、詩朗読瞑想を行います。対応を誤ると遷延(せんえん)し長期間、病むことになります。統合失調症系は、深い深層から起きる観念が現実化し意識を支配しているので難治とされていますが、改善可能です。かつてアメリカの精神科医サリバンは統合失調症入院患者をほぼ改善させたとの報告も残っています。つまり統合失調症も対処によっては改善できることを教えてくれています。心理学習と生命の深い深層の流れの転換が必要になります。心理学習、身体瞑想、地球瞑想を含め、詩朗読瞑想が最も効果的です。
〇筆者の生命哲学研究歴… 広島大学総合科学部在学中から、哲学、文学、思想、日本人の行動様式理論、生と死の宗教学、心理学、仏法生命哲学を研究してきました。心理学と仏法生命哲学研究歴は50年を超え、ここ10年は量子力学、身体科学と仏法生命科学の関係性を重点的に研究しています。学びの旅は今も続いています。
質問 最近、大学の後輩が亡くなりました。悲しくて、夜も眠れません。彼はどうなったのでしょうか? どこへ行ったのでしょうか? 安らかに眠っているのでしょうか? 何かしらヒントをいただければありがたいです。
回答 この問いに正解を出せる人間はいません。なぜなら、今いる人たちは、みんな死んでいないからです。ですから、この問いに対する回答は、すべて仮説であり、推測になります。ここでは二コラ・テスラ(注1)の光振動理論とブッダ(注2)の生命科学理論から考察した私なりの仮説を述べてみます。
(注1)ニコラ・テスラ…アインシュタインと並び称される20世紀最大の物理学者、交流電圧を発見するなど200以上の発見をし、人類の福祉に貢献した。 (注2)ブッダ…仏教の開祖釈迦・釈尊のこと。詳しくは下欄に詳述。
死は、生ある人間にとっては、最も大事な問題です。なぜなら、生まれたものは必ず死ぬのが生命の法則(注3)だからです。死は生きている人間にとって最大の恐怖を与えます。自分が無くなる、自分の持っているものがすべてなくなる…体、地位、名声、財産、能力もすべて失くし、周囲の家族や愛する人たちとも別れなければなりません。人生もこの世界も不確実ですが、死だけは確実で、億万長者も最高権力者も凡人も必ず死にます。死は誰人にも平等にやってくる生命の法則です。差異と差別の現実から見れば、信じられないことですが、今生きている人の生命も本質部分では平等です。この真実をニコラ・テスラやブッダは直観していました。
一代で中国を統一し、権力を恣にし、この世のすべての人間やものを自由に支配できると思っていた秦の始皇帝は、「不死の薬」を賢者に探すように命じたという逸話が遺されています。アメリカでは、死後に生き還ることを願って、自分を冷凍保存にしている人もいると聞きます。いずれも生に対する愛着の強さを物語っています。
死ぬことは人間にとって最大の苦しみであり、一大事なのです。ですから、古来、宗教、哲学、思想、科学が、死について思索してきました。物質世界のことと違って見えない心の世界のことであるため、科学の力でも及びません。そのため、昔から今日にいたるまで、あらゆる仮説がまことしやかに展開されてきました。その最たるものが宗教です。
キリスト教では、死後、神の裁きを受け、魂は天国や地獄に行くという考え方を示します。全ては神が死後を決めるという思想です。人間を含めたこの世界を創ったのは神ですから、生も神の創造であり、死も神の裁断ということになります。イスラム教では、死は終わりではなく、来世へ向かう通過点と考えているようです。死という最後の日に審判を受け、善行を積んだものは、天国へ、悪業を積んだものは地獄へ、アッラーが審判します。一般科学は、物質主義ですから、死ねば物質がなくなるように、すべてなくなるという考えです。仏教は宗派によっていろいろな考えがありますが、生命は断絶するのではなく、基本的には続くという考えです。日本人の死生観は、この仏教の考え方が伝統的に受け入れられているようです。
果たして死後の生命はどうなるのでしょうか? 死とは何でしょうか?生まれる前はどこにいたのでしょうか?生れたのは偶然なのでしょうか、それとも、 生れるべきして生れたのでしょうか?この問いは、生命とは何かという難問に還ってきます。生命の真実の解明なしに、生まれる前の生命、そして死後の生命の解明もできません。私たちの生命とは一体、何なのでしょうか。
ニコラ・テスラは記者のインタビューに次のように答えたと言われています。「存在とは、光の無限の形象の表現です。なぜならエネルギーは存在より古いからです。そしてエネルギーによって、すべて生命は織りなされたのです。これまで存在したあらゆる人間は死ぬことはありませんでした。なぜならエネルギーは永遠だからです。神とはエネルギーのことです。神とは意識を持たない生き産み出し続ける力です。この存在の世界において、あるのは、唯一、一つの状態から別の状態に移ることだけです」
一方、ブッダはあらゆる生命は、無有生死(生と死は有ることは無い)と説きます。生もなく死もない、生命は縁によって顕在し、死という縁で空(注4)のかたちに変り、潜在すると悟りました。つまり生命は無始無終であり、始めもなければ終わりもない、あるのは今の生命が続くだけであると説きます。ブッダとテスラは同じ世界を見ていたようです。仏法生命論は、生命は二つのかたちをとりながら存在し続けると説きます。生命は有という顕在のかたちをとり、一方で無という死のかたちで潜在すると説きます。例えていえば、夜になって寝ます。次の日の朝に起きます。寝る前の自分を生のかたちとしての存在と考えます。眠ったときを死のかたちで存在していると考えます。朝起きた時を次の生のかたちとして新たに存在しと考えます。寝る前も自分、眠っているときも自分、次の日起きた時も同じ自分、自分と言う我は一貫し連続しています。この我の流れをエネルギーと考えるなら、テスラの考え方と一致します。
この我は空の状態で存在すると仏法は論じます。自分の我は生まれ変わって、過去の偉人や生物になるわけではありません。自分という我は、あくまで自分で一貫しています。今、生きているときの行為の総体が記憶化され、次の行為につながるように、今世の生き方の総体が心の深い部分の蔵(注5あらや識)に空の状態で貯蔵され、自分に適した縁を選び出し、顕在化すると説きます。それを因果応報とも言います。今の行為(因)が一つの行動を起こし(果)、幸不幸の報いを得るのが応報ということです。人の目は欺けても自分の心は厳然と事実を記憶し、その善悪の総体が、次の生のかたちを決めるとブッダは説きました。エネルギーはかたちを変えますが、不変とテスラが言ったことと同じことを指しています。
ブッダは過去・現在・未来という三世の生命を悟ったと言われています。ブッダの生命観、生と死は不二であり、生命は無始無終であり、今の我が姿かたちを変えて因果の総体( 業=カルマ)で連続すると悟りました。つまり、人が死んだら生前の行為の総体(行為、言葉、心で思ったこと)…善と悪そして無記(純粋な知識)という業が意識下に「空」のかたちで潜在してゆきます。その業にふさわしい縁を選んで、阿頼耶識に蓄積されているものが種子が発芽するように、新たな生命のかたちになり、生まれると説きます。例えば生前、人らしい生き方…人としての戒を守り、敬虔な心を持ち、四恩(親の恩、社会の恩、師の恩、一切の生物の恩)を感じ、それに報いる生き方をするなど)をしていれば人に生れると言います。動物のような弱肉強食の生き方をしていれば動物(犬・昆虫・鳥など)のかたちに生れるとブッダは説いています。全ては自分の行為の結果であり、誰のせいでもありません。これが自業自得の本当の意味です。つまり、死んでも生きているときの自分という我は、姿形を変えて、心法(注6)(色法=肉体、心法=心、仏法生命論は色心不二と説きます)として存在し、永遠に続くとの理論です。
注2 ブッタ・聖人…インドに約2500年に誕生したブッダを一般的には指します。しかし法華経の正統継承者の中では、三世の生命、未来の宇宙・自然・社会・万物を悟った人を聖人と呼び、この地球上では四人いるとされています。インドのブッダ、中国の天台智顗、日本の最澄と日蓮の四人です。この四名の聖人は、いずれも未来を予言し、それを的中させ、その証拠をもとに聖人と呼ばれるようになりました。また、それに近い人で竜樹・天親菩薩がいます。彼らは人間生命の深層を探り、空観や唯識思想や死後の世界を究明したと言われています。聖人と呼ばれる人たちは、自らの私利私欲と闘い、それを克服昇華させ、人々の苦しみを抜き、人の生き方を高め、現実的に人々を救済し、慈悲行を生涯貫いた人であり、人として最高の生き方の見本を証明した人たちです。「人間は素晴らしい存在である、その素晴らしさにめざめなさい」と生涯、忍耐強く対話を続けたそうです。あくまでも人間に始まり人間で終わった人たちです。同じ人間だら、人間として共感でき、心底尊敬でき、私のあこがれの存在です。
注3生命の不思議な法則…宇宙のすべての存在は生と死を繰り返しています。地上の生物は細胞で構成されていますが、その細胞は生まれて変化成長し、やがて老化し役割を終えます。人間も同じです。細胞でできているからです。この法則を釈迦は生住異滅(じょうじゅういめつ)、生滅の法(生死の二法)と悟りました。
注4 空…竜樹菩薩の中心思想の一つ。存在するものを「有」存在しないものを「無」というとらえ方を超えた生命のとらえ方。分析できないが確かに存在するあり方。例えば電波を例に考えるなら、ここには無数の電波が存在していますが、混線せず存在しています。見えませんが、無数の電波が「空」のかたちで潜在しています。チャンネルを合わせると、一つの電波が受信され、目に見えるかたちをとります。つまり、「空」のかたちで潜在しているものが、「縁・境」によって生起し有のかたちになる。「空」は有無の二つの在り方をとる生命現象なのです。
注5 阿頼耶識 唯識思想では意識の下に、第七識として末那識(自我執着意識)、その下に第八識、阿頼耶識を説きました。七識、八識は意識できない世界に潜在しているが確かに存在し、意識に影響を与えています。脳に記憶化されたものと考えると理解しやすいかもしれません。天台智顗は八識下に根本浄識としての九識を覚知されました。それを法性(仏性)といい、あらゆる万物を創造する慈悲と知慧の生命でありブッダの妙法蓮華経(注7)と同義であると論じています。
注6… 心法、仏法生命論の重要概念の一つ。色法=肉体の働き、心法=心の働き、仏法生命論は色心不二と説きます。この色心不二が生命の存在の真実の姿とブッダは悟りました。般若波羅蜜教の中心思想は「色即是空」です。色法は、これ空との教えです。心法は、空の状態で存在し、縁によって顕在し見えるかたち、色法として働きます。色心不二理論は、妙法蓮華経方便品で説かれた重要理論です。
注7 妙法蓮華経、略して法華経といいます。インド応誕のブッダは、菩提樹下で生命の真実相を悟ったと言われています。その悟りの内容を修行面で仏教と言い、法理面を仏法と言います。悟りの内容は深遠であったため、当時の民衆の生命状態や能力に応じて種々のたとえや方便を使って教えを説いたとされています。例えば念仏の南無阿弥陀仏や大日如来の教えや禅や般若波羅蜜経など、40年にわたって八万宝蔵とも言われる膨大な教えを展開しましたが、いずれも当時の民衆の能力や理解度を考えて、生命の一部分を説いたとブッダは言われました。部分ですから、それらに執着しては、正しい生命観を持てないと戒めましたが、現存する日本の多くの仏教は、部分に囚われています。それゆえ、真実の法に到ることができていないと聖人は語っています。
ブッダは最後の八年で、真実の教え、生命の全体像を説きます。それが妙法蓮華経(サ・ダルマ・プンダリキャ・ソタランのインド、サンスクリット語の漢訳)で、略して法華経と呼ばれています。妙法蓮華経とは、宇宙を含めたすべての存在は不可思議な因果俱時の法に則って存在しているというありのままの姿を言葉として表現したものです。この不思議な法を言葉で名付けた方が聖人であり、その語音律(リズム・振動)が妙法蓮華経です。実態は言葉を超えて存在していますが、人間には比喩の言葉でしか表現できないので、聖人は言葉として表現したと言います。そして比喩即真理(比喩はそのまま真理を表す)と不可思議境の世界を説かれました。この妙法蓮華経の振動は、今この瞬間にも私たちの生命そのものとして存在していると言います。当時、書物はありませんので口承で真意を汲んだ弟子たちによって編集され、28品(章)に分類されました。生物の業を説いた比喩品は第三であり、永遠の生命を説いているのは如来寿量品第十六になります。
如来とは、阿弥陀如来や薬師如来など仏(人的側面)と訳されることもありますが、真実の意味は、今の生命の深層から湧き出る私たちの本来的な生命の振動であり法のことです。つまり、今の一瞬の生命は不可思議であり、どこからともなく湧き起こり、私たちの生を支えていますが、私たちは意識できませんし、実感もできません。過去の記憶の総体で自動的な働きの感受である意識で生きているからです。
如来の意味は、瞬間に発動する生命のもつ慈悲と智慧の律動であり振動リズムです。これを光の振動ととらえたのがニコラ・テスラです。生命は永遠に今を振動しています。永遠と言う言葉は時間の変化を表す言葉であり、アインシュタインは、時間はない、変化があるだけと言いました。実際の生命は常に今しかないのです。アインシュタインもニコラ・テスラも、こうした世界の一部を覚知していたと言われています。だからあれほどの発見ができたとも言えます。この今の生命の真実の在り方、如如としてくる生命、つまり妙法蓮華経如来にナム(ナムは梵語、漢語で帰命…リズムを冥合させること)して生きることこそ真の幸福に至る道(仏道)と聖人は教えています。私は今日まで、50年近く諸般の哲学や文学、科学、心理学、仏法生命哲学を研究してきました。研鑽の旅は今も続いています。あなたもぜひ、思索研究され、生命の真実に接近されてみてください。
しらんの便り…不登校・引きこもり・心の不調からよみがえる本 (来春出版予定)第五章より抜粋
〇筆者は、広島大学総合科学部在学中から、哲学、文学、思想、生と死の宗教学、心理学、仏法生命哲学を研究してきました。心理学と仏法生命哲学研究歴は50年を超え、ここ10年は量子力学、身体科学と仏法生命科学の関係性を重点的に研究しています。学びの旅は今も続いています。
(質問)自分が嫌いです。自分の顔も嫌いです。生きることが辛いです。どうすればいいですか。
回答
自分が嫌いなぐらい辛いことはありません。生きているのは自分であり、自分そのものですから…。その自分が嫌い、それは生きることが嫌いということと同じぐらい辛く苦しいことです。
よくよく考えてみると、自分が嫌いと感じているのは、あなたの意識が感知した世界のことです。その意識の向いている対象とは一体何なのでしょうか。意識はあなたの全体を感知できません。意識が感知できるのは、あなたのごく一部だけです。まず、そのことを知らなければいけません。
あなたが嫌いと感じているのは、あなたのどの部分のことなのでしょうか。顔でしょうか.体形でしょうか、暗いなどといわれる性格面でしょうか、うまく人と話せない自分でしょうか、嘘をつき内心を隠す自分でしょうか、成績が良くない自分でしょうか、運動能力の低い自分でしょうか、家庭に問題がある自分でしょうか、貧しい家に住む自分でしょうか…例を挙げればきりがありません。
しかし、これらは、あなたの属性の一部分にすぎません。あなたの全体ではありません。部分は全体ではないことを知らなければなりません。顔がよいとかよくないとかは、あなたの属性の一部分にしか過ぎないのです。一部分で全体を決めてしまっていることに気づかなければいけません。人間の真の価値は、部分の属性で決まるものではなく、全体で決まります。例えば、一人の人の苦しみもわからない国王より、貧しく地位もないけど、隣人の一人を救う人のほうが人間としての価値は高く、偉い人と聖人(ブッダ)言いました。
顔という一属性を例に挙げて考えてみます。確かに顔は人間にとって大事な部位です。顔の表情を見れば、その人の心情を読むことができますし、生き方そのものが顔に現れていると言われます。人相診断というものがあるほどですから。確かによい顔は好感をもたらします。そのよい顔とは一体どんな顔をいうのでしょうか。マスコミなので作られた俳優のような顔をよい顔というのでしょうか。顔は人間の中心的な部位ですが、人間全体ではありません。あくまで一部です。つまり顔がよいというのはその人の一部を評価されたにすぎません、その人そのものが好(よ)いわけではありません。
顔に対する意識は、今のあなたが感じたものにすぎません。そしてその顔を評価しているのは誰でしょう。あなたですか、それとも周囲の人ですか。よく考えてみてください。よく考えてみると、その評価は、社会の人が作った評価を周囲の人も信じ、その評価をあなたが取り入れているに過ぎないことがわかります。わかりやすくいえば、顔のよしあしを決めているのは、その時代の価値基準というものさしです。
例を挙げれば、女性の外見の美の基準は時代とともに変わっています。平安時代は、ふくよかな一重瞼の切れ長で、髪が美しい女性が美人とされました。日本は長く和服文化で、和服を着ていましたので、欧米の服装が入ってくるまでは、和服が似合う人が美人でした。現代は、欧米の影響もあり、外見のスマートさや化粧や装飾品、髪型など顔の持つ本来の素面(すめん・素材)のよさより、装飾され加工された美を求める傾向にあります。その最たるものが整形、スマートなスタイルです。しかし、いかに外見を飾っても心根(こころね)の美しさは装飾や加工では作れません。心根のよさは生き方が反映されるからです。女性に対する美意識も時代とともに変わっていきます。変わらないのは心根の美しさです。
「単純さは究極の洗練である」とレオナルド・ダビンチは言いました。真の美は調和であり、整った秩序を持ち、単純です。体と心の調和されたものこそ真の美です。その美は時間の変化の中でも輝きます。心に美しさを持つ人は、年齢とともに美しさを発揮してゆけます。体は時間とともに衰えてゆきますが、心は死ぬまで成長してゆくものだからです。真実は常に単純です。
顔という一部分で人間全体を決めつけることの愚かさがわかったと思います。内面的な性格、能力、優しさ、思いやる心の深さ、そうしたものを持つ人の美しさは顔の美しさをはるかに凌駕します。
どんな美しい顔立ちであっても心の成長のない顔は飽きます。また風化してゆきますが、心を磨いた顔は日々輝いていきます。自分の一部を見て、他者と比較し、自分を劣ったもの、だめなものと決めつけることから、自分が嫌だという感情が生まれます。それは、あなた全体のもつ可能性に対する冒涜です。あなたには、もっもっといろいろなものがあるはずです。例え、世の中の基準値から見て、顔がよくなくとも、顔が嫌いでも、心根が好(よ)ければ、また他人があなたの心根をほめれば、あなたはあなたの心根が好きになるはずです。好い所が増えれば増えるほど、自分が自分を好きになれます。
あなたの体を目を閉じて想像してみてください。体には、皮膚、筋肉、骨、脳、神経、口、鼻、耳、目、食道、胃、腸、肝臓、心臓、肺、ホルモン、血液…など無数の部分(パーツ)があります。顔は皮膚の一部です。あなた全体の100分の一以下にすぎません。百分の一が劣っているからといって、全体の100を嫌うという愚かな考えに陥っています。
今の自分をありのまま受け入れ、あなた自身の全体に生きることです。あなたの全体を知ることです。そこから全ての変化が起きます。大事なことは、他人の言葉ではなく、自分が自分に投げかける言葉なのです。
もう一度繰り返します。人間の属性はたくさんあります。その属性を比較する基準も、人が作ったものさしに過ぎません。容姿以外にも、頭の良さ、学歴、性格、富、人気、家柄など、その人の持つ属性はたくさんあり、評価基準も無数にあります。評価基準は社会や人が作ったものです。容姿が人より悪くとも、他の面で人より秀でていれば、人も認め、自分も自分の容姿の悪さを受け入れることができるようになります。善いところも悪いところも、容姿の悪さも、すべて自分の一部です。
今の自分をすべて受け入れることです。あなたには気づかないあなたの良さがまだたくさんあなたの中に潜在しています。意識の方向を変えてみることです。違った自分が見えてくるはずです。人と比べることをやめ、今日の自分と明日の自分を比べる生き方に変え、自分のよさを開発してゆくことです。人と比べても本当の成長はありませんが、今の自分と未来の自分を比べ、足りないところを努力し補っていけば確実に成長してゆきます。そして人からも認められるようになっていきます。やがて自分を認めることができるようになります。その積み重ねの努力の継続が、自分は自分でよいと思える自分にしてくれるでしょう。
今の自分を全部受け入れ、多くの未知の可能性の発掘のため、常に学び向上し、心を磨いていけば、自分の欠点なんか、気にならない日がくるでしょう。あなたには、それだけ素晴らしい力が眠っているからです。その開発も、今の自分を丸ごと受け入れることから始まります。いつの日か、自分が好きになる日が必ず来ます。私もそうでした。
芝蘭の便り「ひきこもり・不登校・心の不調からよみがえる」(来週出版予定) 第五章の3 質問に答えるより
〇筆者は、広島大学総合科学部在学中から、哲学、文学、思想、生と死の宗教学、心理学、仏法生命哲学を研究してきました。心理学と仏法生命哲学研究歴は50年を超え、ここ10年は量子力学、身体科学と仏法生命科学の関係性を重点的に研究しています。学びの旅は今も続いています。